長い間使い続けてしばらく替えなかった携帯のメール着信音を、替えた。
今までのメール着信音は、SiamShadeのTimes。アルバムにしか入っていないマイナーな曲だけど、すごくお気に入りだ。それを、替えてしまった。
理由は一つ。メールの着信音を、長い音楽じゃなくって、短い音にしたかったから。メールが入って来ても、メールが着たことがあまり目立たないように、メールが最近急に増えたことを咎められないようにしたかったから。
短くてあまり気に触らない、キラキラ系の着信音。3秒も鳴れば止まってしまう。これなら、シュウもそんなに気にしないだろう。
退屈な授業を着メロのダウンロードでやっとやり過ごし、入れ替わりでごった返す講堂を出た。家では今日は授業がないといっていたシュウがまだ眠っているはずだ。二人分の昼食を買って、家に帰ろう。
昔は、確かに嬉しかったこういう生活。今では、なぜか苦痛な気がする。
アパートの前までついて、重い教科書の入ったバックと近所のハンバ−ガーショップの袋をぶら下げて、それはとても重いからあたしは無様な格好で、ポケットから何とか鍵を取り出し、自分で鍵を開ける。
本当なら、チャイムを鳴らして、シュウが出てきて、重い荷物を受け取ってくれて、「お帰り」とか言ってくれたら最高だと思う。というか、男女のお付き合いってそんなものだと思っていた。でも、現実はそんなに甘くない。
荷物は重いけど、お昼ご飯の袋は斜めにできない。セットのジュースがこぼれてしまうから。ぐちゃぐちゃの玄関のたくさんの靴達に躓きながら、リビングへ向かう。リビングはものだらけで、足の踏み場もない。その真中に敷かれた布団に、シュウが横たわっている。
布団の隣りのやっぱりものだらけの万年炬燵に、何とかスペースを作ってご飯を置く。重いバッグを下ろし、シュウを起こしにかかる。
「シュウ、ご飯買ってきたよ。」
だらしない顔で起きてきたシュウ。「おはよう」も「いただきます」も、当然「ありがとう」も無しに、がさがさと袋を開けてハンバーガーをむさぼり始める。シュウは、あたしがシュウの衣食住を世話することを、何の疑いも無しに受け入れている。「受け入れている」という表現でも足りないかもしれない。「世話させてやってる」くらいに思っているのかもしれない。
シュウと出会ったのは、大学でだった。大学で、あたしと仲の良かった寮生の男友達の、寮での仲良しがシュウだった。その男友達を通して、みんなで遊びに行くときにシュウはよくくっついてきた。カラオケに行ったり、有名なおいしいソフトクリームのお店に出掛けたり、ゲームセンターで激戦を戦わせる仲間達。大体男女取り混ぜて6、7人の遊び仲間同士で、いつしかみんな気の置けない仲間になっていた。
最初に個人的にシュウを誘ったのはあたしのほうだ。その頃のあたしは、大学に入りたてで、教育大学生という特権を生かし、家庭教師のアルバイトでかなりの稼ぎがあった。その稼ぎで、覚えたてのお酒を飲みに行くのが楽しみだった。けれど、女一人のお酒は寂しい。行き付けの居酒屋(というより、当時はここしか知らなかった)は、上客のあたしに親切だったけど、他にお客さんがたくさんいる時は構ってもらえずに寂しかったし、そうでない時も酔っ払いに冷やかされるのが嫌だったので、よく男の子を連れてお酒を飲みに出かけた。ある、どうしても誰もつかまらなかった夜、本当に何となく、あたしはシュウを誘った。シュウはお酒にはそう強くはない様だったが、付き合いはよかった。それに、話し好きなあたしのたわいないお喋りを、根気よく聞き続けてくれた。だから、それ以来よくシュウを誘うようになった。
運命の夜は、少しあたしが暴走気味だったことで始まった。いつものようにいつもの店でお酒を飲み、あたしよりお酒に弱いシュウが、「そろそろ解散しよう」と言ったとき、珍しくあたしは文句を言った。
「まだ早いよ。もう少し付き合って」
「俺、もう疲れたよ。こうやって座ってるのもだるいくらいなんだ」
「じゃあ」なんの裏もなく、さらっとあたしは言った。
「じゃあ、シュウの部屋に行こう。そこでくつろぎながら飲めばいいじゃん」
勢いで言ったことが、数十分後には本当になってしまった。
その頃は、好きでも嫌いでもなかったシュウ。夜更けで静かな大学の男子寮に、静かに忍びこみ、シュウの部屋で二人で缶チューハイを飲んだ。最初はいつも通りあたしがしゃべっていたのだけれど、シュウに「寮は壁が薄いんだ。みんな寝てる時間だから静かに」といわれ、あたしは何をどうしていいのかわからなくなった。ふと、自分が深夜に男の子の部屋で男の子と二人っきりな事に気づいてしまった。静かに、部屋の中の空気が変わり始めていた。
結局、お酒の好きなあたしが缶チューハイを一本飲み終わるより先に、あたしとシュウは裸でベッドにいた。すべてが終わって、あたしが「やっちゃったなー」なんてほのかに後悔し始めている頃にも、シュウはずっとあたしを抱きしめつづけていた。あたしは仕方なく、後悔しながらも、この腕の中は居心地がいいかもしれないなんて思っていた。気づくと、あたしは眠っていた。
目を覚ますと、もう明け方近いようだった。あたしを抱きしめている腕をそっと解いて、眠っているシュウをそっと起こした。
「シュウ、あたしもう帰るよ。朝になったら誰かに見つかっちゃう」
「大丈夫。この部屋の中までは誰もこないから。だから、もう少し一緒にいて」
今思うと、その時のシュウは寝惚けていたのかもしれない。そして、あたしまで寝惚けていたのか、まんまとその言葉にやられてしまった。
その日、寮の狭い部屋で一緒に朝を迎えてから、あたしとシュウは恋人同士になった。きっかけはどうであれ、気持ちはしっかりついてくるもので、あの時「一緒にいて」と言ったシュウの言葉の裏にある寂しさを埋めることに、あたしは夢中になっていた。人前でもかまわずに、恥ずかしいセリフを平気な顔で口にできるシュウは、いつもあたしの自尊心を満足させた。いつも一緒にいて、毎晩一緒にいて、暇さえあれば抱き合っていた。
それが、いつしか当たり前になった。
一緒にいることは当たり前、毎晩一緒に過ごすことも、暇さえあれば抱き合うことも。
一緒にいることを幸福だと思えにくくなってきていた。一緒に過ごせない時は、一緒に過ごせない理由を作ったほうが悪いと、お互いを責めた。だから、あたしの家庭教師は次第に回数を少なくしていったし、シュウがバスケットボールに費やしていた時間も、だんだん無くなっていった。何かが違う、ってお互い思っているけど、それは口に出せないことだ。なぜなら、間違いなく、あたしはシュウを愛しているし、シュウはあたしを愛している。それ以上に何かを望むことは許されないのではないか。愛していて、愛されていれば、他のことなんてどうでもいいのではないか。
その結末が、今のこの生活だ。
「まほ、食べないの?」
ふとわれに帰って見ると、シュウは自分の分をあらかた食べ終えて、あたしのポテトを狙っているようだ。いろいろ考えたら疲れた。よって、食欲もちょっと減退気味。
「いいよ、ポテトあげる。」
言うが早いか、もうシュウはポテトに手を伸ばしている。あたしも負けないでハンバーガーにかぶりつく。最近のあたしは少しおかしいのかもしれない。愛しているはずなのに、愛し合ってるはずなのに、何かが胸の中でうずく。シュウと一緒にいることは幸せなことなはずなのに、不満が次々に形をあらわす。愚痴っぽい自分は嫌だ。それに、愚痴っぽい女でいるとシュウに嫌われるかもしれない。
シュウに嫌われる?本当に、そんなことがあるんだろうか。
食事が終わると、何も言わずにシュウがあたしを布団へ引きずり込む。服を脱がされ、「いつもの手順で」愛される。体はいつもの手順で反応し、いつもの手順で最後の瞬間を迎える。
シュウは、こういう生活に疑問を抱かないのだろうか。例えば、明日あたしがこういう行為を拒んだら、シュウはどうするんだろう。
気づいたら、眠っていた。あたしは最後の瞬間を迎えた後、必ず眠ってしまう。シュウは、午前中から寝ていたはずなのに、またぐっすり眠っていた。
年中遮光カーテンを締め切ったこの部屋では、時間はわからない。掛け時計はなく、目覚ましが転がっているはずなのだがそれもモノに埋もれてどこにあるのかわからない。枕元をまさぐり、携帯を探す。やっと見つけた携帯を開くと、メール受信のマークが表示されていた。時間を見ることより先に、シュウがまだ眠っていることを確認して、メールを見る。
メールはやっぱり、紺井からだった。あたしに、メール着信音を替えさせた人。新しい着信音に替えたことは正解だった。証拠に、あたしもシュウも、このメールでは目覚めなかった。そんなことを考えながら、メールの文面に視線を走らせる。『今日は何してた?俺は仕事が終わってから温泉に行きます。一緒に行く?』微笑みながら返信する。『ごめん。昼寝してて気づかなかった。いいなあ温泉。』
紺井と一緒に温泉に行く気はない。紺井がもう仕事を終えて温泉に行ってしまった後なことを見越して送ったずるいメール。
昔のアルバイト先の職員だった紺井。ちょっと風変わりで口うるさくない紺井とは、あたしが大学生になってバイトを辞めた後も、こうして交流が続いていた。
紺井が電話をかけてくることはめったにない。ほとんどが意味のないメール。こうして何かに誘ってくれることもあるし、世間話を送ってきてくれることもあるし、少し前に紺井が付き合っていた彼女と別れた後は、メールが前より頻繁になり、内容もたまにドキっとするものが含まれるようになった。
でも、それだけ。あたしにはシュウがいるし、紺井もしつこかったりは絶対しない。
シュウとの生活に嫌気がさしはじめてから、紺井からのメールはあたしの清涼剤になった。絶対束縛しない、あたしとのこういう付き合いに、新鮮さを持ってくれている紺井。何もかもが当たり前のシュウとは大違い。シュウとの生活でたまったあたしの中の澱を、紺井とのメールで洗い流す。そうして、あたしはまたシュウのもとで頑張る。
これが最近のあたしだ。もし、シュウに紺井とのこのメール交換を責められてしまったら、あたしは自分の澱を洗い流すすべを失い、きっとシュウと上手にやっていけなくなる。本当は、シュウはあたしがシュウ以外の男の人と接触することを嫌う。だから、紺井とのこのメール交換を、シュウには知られてはいけない。きっと怒ってメール交換禁止にされてしまうから。
日はすっかり暮れているようだ。起き出して、のろのろと服を着る。夕飯の買い物に行かなきゃ。シュウは、あたしが動いても起きあがって来る気配はない。一人お財布をつかみ、近所のスーパーへ向かう。
一人で、買い物を済ませ、料理をし、シュウにご飯を食べさせる。
シュウは何も手伝ってくれない。相変わらず、当たり前のような顔をしている。それが、あたしの憂鬱を大きくしていることに、シュウは気づかないようで、一人、食後にレポートを書いている。あたしも書かなくてはいけないレポートなのだが、テーブルは占領されている。仲良くテーブルを半分づつ使うなんてことも、シュウは思いつかないらしい。
あたしは仕方なしにシャワーを浴びる。レポートを終えたシュウが眠った後、一人でレポートを書く。こんな生活がずっと続くのだろうか。この先、どこまで続くのだろうか。
朝になった。シュウが眠っているうちに起きて、メールをチェックする。やっぱり来ていた。紺井からのメール。『温泉気持ち良かったよ。今度は一緒に行こうね』あたしは返信する。『おはよう。温泉今度必ず連れてってね。』送り終わって、シュウを起こす。
「起きて、シュウ。朝だよ」
シュウはめちゃくちゃ寝起きが悪いし、起きぬけは機嫌も最悪だ。
「シュウ、早く起きないと遅刻しちゃうよ」
「うるせーな」
あたしの胸にチクっととげが刺さる。
布団から起きあがって、文句を言うシュウ。
「あー、髪直してる時間ねえじゃねえか。もっと早くに起こしてくれよな」
また一つ、チクっ。
結局時間ぎりぎりまで粘って髪を直したシュウと、自転車を二人乗りして大学に行く。途中、何人かの友達に会う。
「おはよー!」
声を掛け合う。彼女らは、あたし達をラブラブだと思っているんだろう。あたしが胸にチクチク傷を負ってるなんて、気づかないんだろう。
すごく切なかった。あたしのこの生活は何だろう。
授業中は、紺井とのメールで時間をつぶすことが多くなってきていた。紺井とのメールには、とげがない。傷つかない。
『今何してた?』
『仕事で遠出してた。商品の配送だよ』
『じゃあドライブみたいなもんじゃない。いいなあ。』
『でも一人じゃ退屈。今度ついておいで』
『大学の授業の合間ができたらネ。』
『そのときは言いなさい。迎えに行くから。』
『うん♪迎えに来てね』
『まほは何してたの?』
『授業中だよ。退屈。』
『まほがメールくれるのっていつも授業中だなあ。授業まともに受けてないだろ。』
『仕方ないんだよ。授業が面白くないんだから。』
『俺とのメールはおもしろいの?』
『うん。おもしろいよ。』
音を消して、無数のメールをやり取りする。
さっきまでチクチクと痛かった胸が元気になってくる。メール交換で、楽しい気分になってくる。シュウと別々に受ける授業。あたしの、心の清涼剤タイム。
ある日、あたしの授業が全て休講になった。何でもあたしの専攻している分野の先生達による研究会があるらしい。あたしはシュウにそのことを告げなかった。代わりに、紺井にメールを打った。
『暇なの。迎えに来て。』
シュウを大学に送り出した後、紺井に家の前まで来てもらった。紺井は時間に正確にやってきて、笑顔であたしを迎えた。
「ホントに来てくれて嬉しいよ。今日も神奈川の奥のほうまで行くから、退屈だったんだ。」
あたしは笑顔で返す。
「そんなことより会うのってずいぶん久しぶりじゃない?メールでしか会ってなかったから。」
「メールで会う、か。まほらしい表現だな。俺はメールでは会った気がしないなあ。会うのは本当に久しぶりな気がする。」
「うん。久しぶりだよ。」
言いながらドアを開けて、紺井の車の助手席に乗り込む。と同時に、車はスタートする。シュウに内緒の、紺井とのデート。車は心地よく走り、あたしは少し窓を開ける。窓からの風が気持ちいい。
ふと、これは浮気だろうかという考えが心をよぎる。シュウの顔が浮かんでくる。でも、何をするわけでもない。ただドライブするだけ。悪いことなんて何もしていない。
紺井はひっきりなしにしゃべっていたし、あたしがしゃべると返答もくれた。シュウとは大違い。シュウはあたしとはあまり話さない。話さなくてもわかる、と思っているらしい。あたしが話しかけても、「うん」とか「ああ」とか、そういう聞いているんだか聞いていないんだかわからない返事しか返って来ない。シュウは、日本のお父さんの悪いところばかりを集めた人間みたい。
ドライブは楽しかった。紺井は無事商品の配送を終え、あっという間に帰り道になる。それでもあたしはテンションが高いままで、紺井とのドライブを楽しんでいた。
帰り道は行きよりずっと短く感じた。あっという間に家まで送り届けられる。
「またどっか行こうね」
「ああ、また誘ってくれたら迎えに来るよ」
楽しい気分で紺井とわかれた。家に帰ると、シュウはまだ大学のようだった。
「よしっ!」
紺井にもらったパワーが消えないうちに、シュウのための夕食作りを始めた。
シュウが帰ってきて、夕食後、機嫌がいいねと言われた。良いことがあったの、と言っておいた。シュウは「ふーん」とだけ言うと、後は興味なさそうに新聞に目を落としていた。
暑くなってきていた。夏真っ盛りだ。大学は、とっくに夏休みに入っていた。シュウは着々と実家に帰る準備を始めた。あたしは帰ろうか帰らないか、どうしたらいいのか迷っていた。
そんなある日、紺井からメールが来たのだ。
『俺、お盆休みが三日あるんだけど、その期間旅行に行かない?』
旅行!シュウなら絶対誘ってくれない。行きたいなあ、そう思った。
でも、シュウがいる。あたしには、シュウがいるのだ。どうしようか迷った。男友達とドライブはできても、旅行はできない。彼氏なら別だけど。あたしは二又かけられるような器用な女じゃない。二つに一つ、だ。慣れて生ぬるい、もしかすると恋愛の局地まで行ってしまっているのかもしれないシュウと、ドキドキやわくわくがたくさんの、お互い気を遣い合う紺井との関係。旅行に行くとしたら、それはシュウを捨てるということだ。迷った末、返事はこう送った。
『まだお盆の予定が立ちません。もうちょっとお返事を待ってください。』
あの日からずっと迷いつづけている。そろそろ決断しなければいけない。あれだけうんざりしていたはずのシュウも、いざ別れるとなると離れがたいものだ。迷っていた。紺井だって、あたしにはシュウという人がいることを知っている。なのに、わざわざ旅行に誘うなんて。あたしのこと、試しているんだろうか。
旅行に行きたいが行くと言えないまま、数日間が過ぎた。
そんなある日、紺井からメールが来た。
『まほは結局文句言いながらも彼氏と別れられないんだね』
どきっとした。紺井はあたしが旅行に行くと言えない理由をちゃんと知っている。それを承知で誘っているのだ。あたしは、なぜだか少しむきになった。
『そんなことないよ。もうこんな生活うんざりだもん。別れられるもん』
もう止まらなくなっていた。
『旅行も、返事遅くなって悪いけど、行くから。楽しみにしてるから。』
そう、返事をしてしまった。まんまと紺井との駆け引きに負けた気がする。
旅行はお盆の真っ最中に行くことになった。近場の観光地へ、温泉につかりに行くのだそうだ。シュウには、実家に帰ることにしておいた。予定の日は、刻々と近づいて来た。
出発の日、シュウが見送りに来るなんて言うんじゃないかと思ってひやひやした。でも杞憂だった。シュウがそんなに優しいわけがない。一人で近所のコンビニの前で待ってると、紺井が車で現れた。
「おはよう」
あいさつをして、荷物を積み込むのを手伝ってもらい、(なんだか荷物はたいそう多くなってしまった)車へ乗りこむ。
仲良くおしゃべりをしながら、車は進む。あたしは、あまりに楽しくて、シュウのことはちっとも思い出さなかった。
途中のパーキングエリアで、ソフトクリームを食べた。紺井はソフトクリームを食べるのが下手で、顔中べたべたにしていた。あたし達は、そんなことで笑い合った。
目的地の宿についたのは夕方だった。きれいないいホテルだった。部屋はツインルームで、ダブルでないことに少しほっとした。そのとき初めて、シュウのことを思い出した。罪悪感と、これで良いんだという肯定の気持ちが入り混じる。あたしは、少しだけ複雑な気持ちになった。
部屋に入り、荷物を置く。
「夕食前に一度入浴しよう。ここのお風呂は広くてびっくりするよ。」
その言葉に期待して、一緒にお風呂に向かった。男湯・女湯の前で、
「じゃあ1時間後に集合にしよう」
と決めた。
お風呂は、想像していたよりずっと広くてキレイだった。あたしはひとりではしゃぎながら、あっちの浴槽、こっちの浴槽といっぱい入ってみた。ラベンダー色のハーブの浴槽や、ヒノキのお風呂、乳白色のにごり湯まで様々あって、全て気持ち良かった。約束の一時間はあっという間に来てしまい、あたしは大浴場を出た。
紺井は先に上がっていて、あたしを待っていた。
シュウだったら絶対待っててくれないな、そう思った。
紺井は優しい。笑顔で、先に立ってあたしを導きながら部屋へ戻る。
二人で、缶ビールを一缶づつ飲んだ。温泉の後のビールは格別だった。一休みして、今度は夕食の時間になる。
夕食は、豪華バイキングだった。カニもあったし、ステーキも目の前で焼いてくれていた。あたしはかなりはしゃいで、色んな物を持ってきた。紺井も同じだったようで、二人が席についたときには、テーブルの上は本当にこんなに食べれるのかって言うだけ食べ物が並んでいた。
「やり過ぎだったかな?」
紺井が目で笑いながら行った。
「そうかもね」
あたしも笑いながらそう返した。
それから、大量の食べ物との格闘が始まった。ビールも飲みながら、二人で大騒ぎして食べた。二人とも同じ物をお皿いっぱいづつ取って来ていたり、相手が持ってきたものがおいしそうなので奪ったりと、ここでもまたはしゃいでいた。
結局二人とも動けなくなるだけ食べ、お皿はきれいに空になった。二人でふうふう言いながら部屋へ戻る。
部屋へ入ると、お互いベッドに大の字になった。
「おなかいっぱいだねえ」
「うん。さすがの俺も食い過ぎた」
妙に楽しい時間だった。少し休んで、はしゃいだ気分は持ったまま、外にビールを買いに出た。腹ごなしにはちょうどよく、散歩のような気分で外を歩いた。歩きながら、紺井がそっと手を握ってきた。あたしは快く紺井と手をつなぐ。
そうしてお買い物を済ませ、ホテルの部屋へ戻る。さっきおなか一杯食べたはずなのに、なぜかビールならおなかに入ってしまう。不思議だ。そう思った。
紺井とおしゃべりをしながら、たくさんビールを飲んだ。すごく楽しかった。心から楽しかった。
しかしビールも全てなくなり、夜もふけてきたので寝よう、という事になった。
紺井は先にベッドに入り、
「一緒に寝る?」
とあたしに聞いた。
毒をくらわば皿までも、だ。あたしはもう後戻りできないところに来ている。
「うん」
と返事をして、紺井の隣りに滑り込んだ。
紺井は、優しくあたしを抱きしめた。そして、あたしのハレンチな予測を裏切り、何もしてこなかった。ただ、静かに抱きしめるだけ。心臓の音が、とくん、とくんと聞こえる。紺井はすごく暖かかった。あたしは、子どものように安心して紺井の胸で眠った。
旅行から帰ってくると、シュウはまだ実家に帰省中だった。しばらく、一人暮しになる。本当に珍しいことだ。一人で、色々考えた。シュウになんと切り出そう、シュウはどうするだろうか、今から少しづつシュウの荷物をまとめておくべきか。
色々考えた、いや考えようとしたが、何一つまとまらないまま、シュウが帰ってくる日になってしまった。
あたしは、複雑な表情で、シュウを迎えた。シュウは、今まで何度も帰省していて、今まではそんなこと一度もなかったのに、はいこれ、とお土産を差し出した。
あたしはかなり驚いてシュウを見る。シュウは、言い訳のように
「いつも世話になってるから」といった。
あたしは心がぐしゃぐしゃになった。
シュウは何か感づいているのかもしれない、と思った。
紺井からは、『楽しかったね、また機会があったらどこか行こう!』とメールが入っていた。あたしは、シュウのことを考えていて、返事を返せなかった。
ある日、シュウが
「今夜は寮で話し合いがあるから、寮で寝る」
と言い出した。
昔だったら、これだけでケンカになっていた。『話し合いが終わった後帰って来て、ここで寝ればいいじゃん』、『夜遅いからそれも億劫なんだよ』といった具合に。
今はなぜかケンカにならない。あたしはあっさりシュウを送り出す。
「いってらっしゃい」
夜、玄関まで出てシュウを送り出す。同時に、部屋の中できらきら音が鳴り響いた。あたしはすばやくメールを見る。
『今夜飲みに行かない?』
紺井からのメールのタイミングの良さに、あたしは感激した。
『いいよ、行く。今から家に向かうから紺井さんもこっちに向かってきて。』
あたしと紺井はごくごくご近所さんだった。
それにしても今日この日でなければ行けなかった。本当にタイミングが良かった。シュウにはまだ何も告げられずにいる。よって、こうしてこそこそ動くことしかできないのだ。
いそいで支度して、いつも大学に行くときよりちょっとおしゃれをして、家を出る。紺井とは、ちょうどお互いの家の真中あたりで出会えた。
「歩いていける距離に、俺の行き付けのメンズがあるんだ。そこにいこう。そこなら、簡単な食べ物もあるよ。」
「うん、じゃあ連れていって。」
いつかのように手をつなぎながら、夜道を歩く。飲み屋街に入り、そのうちの一軒のビルに入る。狭いエレベーターで身を寄せ合うようにして5階まで上がり、『コレクション』と看板のかかったメンズの重そうな扉を開く。
と、とたんににぎやかな雰囲気に圧倒される。
「こんさんいらっしゃーい!!」
紺井とあたしは喧騒に迎え入れられる。席につくと、冷たいお絞りが出てきた。
店員がイタズラっぽい目であたしと紺井を見て、紺井に、
「こんさん彼女?」
と聞いた。
あたしは少し身を固くしたが、紺井は、
「今口説いてる最中なの!」
と、これまたイタズラっぽく答える。そうか、あたしは紺井に口説かれている最中だったのか。
知らなかったな、とぼんやり考え、あたしの中では答えはもう出てるのに、とも思った。
まずは一杯目、ビールで乾杯する。そのうちに、オーダーした食べ物が次々出てくる。奥の厨房で、料理をメンズの店員のお兄ちゃんが手作りしているのが見える。なんだか、感じのいい店だ。ちっとも気取っていない店だった。
ビールを飲み干すと、焼酎のボトルが出てきた。ボトルネックはかかっておらず、ボトルに直接『紺井』と書いてある。それを紺井は水割りで、あたしはライム割りで飲んだ。店員の料理を作ってくれたお兄ちゃんが、あたし達のところにつく。
あたし達はお兄ちゃんにも焼酎を飲ませる。お兄ちゃんは
「ごちそうになります!」
と元気に言って、おいしそうにウーロン茶割りを飲んだ。
「こんさんが女の人連れてくるなんて久しぶりですね。前の彼女と別れて以来じゃないっすか。」
「そういうこと言わないの。今この子口説こうとしてるのに、前の彼女の話は無し!」
みんなで大爆笑した。
「カラオケいかがっすか?」
お兄ちゃんが分厚いカラオケの本を持ってくる。
「メドレー一気やろうか!」
紺井が元気に言う。
「やろうやろう!」
あたしとお兄ちゃんが一緒に賛同する。
初めは紺井が選んで、あろうことか『ピンクレディーメドレー』だった。サウスポーやUFO、モンスター。歌詞の画面が切り替わるごとにマイクをまわす。最後の曲はいつくるかわからない。最後の曲の、一番最後に歌った人が一気飲みしなくてはいけないのだ。最後を歌ったのは、紺井だった。紺井はたっぷりとしたグラスにいっぱいの水割りを、潔く飲み干した。
次は、負けた人が選ぶ権利がある。よって、また選ぶのは紺井になった。次はGLAYメドレー。今度は新し目なのでほっとした。また、1画面ごとにマイクをまわす。最後の曲はBELOVEDだった。負けはあたし。ライム割りを一息に飲み干した。
そんなペースで、ゲームは続いていった。新しい歌も、古い歌もいっぱい歌った。
三時過ぎに、あたし達は店を後にした。二人とも少しふらふらしていて、機嫌は絶好調だった。手をつないで、寄り道しながらおうちに帰った。
紺井は、家の前まであたしを送ってくれた。別れ際、離れがたくて二人で家の前に立ち止まって色んな話をした。
話が、ふと途切れた。二人の目が合った。
紺井が、そっとあたしを抱きしめた。大きな手で、あたしの頭を自分の胸に押し当てた。
とくん、とくん。いつかも聞いた鼓動が、あたしを安心させる。
そっと腕を離す紺井。
「じゃあ、またな。」
紺井が言った。
「うん、またね。」
あたしが返す。
そっと離れて、バイバイした。あたしは、家へ入っていった。しばらく、紺井の鼓動が頭を離れなかった。
翌日、シュウが帰ってきた。話さなきゃ、と思った。もうこれ以上半端にはしておけない。
「シュウ、話があるんだけど」
「何?」
「…」
あたしは意気地なしだ。そこでもう言いよどんでしまった。
「好きな人でもできた?」
シュウに先にそう言われた。あたしは言葉を失った。
「そんなこと気づかないとでも思ってたのかよ。おまえのことはずっと一緒にいて見てるんだ。わかるよ、そのくらい。」
「…ごめん」
「謝るんならそいつのこと嫌いになってくれ。」
「…。」
「後一週間で何の日か知ってるか?」
後一週間?8月の28日だ。あ、っと思った。
「俺とおまえが付き合い始めて三年目の記念日だ。」
あたしは比較的そういうことは忘れないたちだ。それを忘れさせていた紺井に脅威を感じた。
「俺は一緒に3周年を祝いたいから、別れる気はない。おまえもしっかり考え直してくれ。」
シュウはあたしのことなんて見ていないと思っていた。あたしの変化なんて気づいていないと思っていた。気丈なことを言っているが、傷ついているに違いない。罪悪感で、あたしの心は満たされる。気づくと、あたしは泣いていた。初めは涙がこぼれる程度、次第に声をあげて激しく。
気づくと、シュウがそばに来ていた。泣いているあたしを丸ごと抱きしめた。気づくと、シュウも涙をこぼしていた。
あたし達は、言葉もなくしばらくそうしていた。そして、その夜はそのまま眠った。
翌朝、シュウはいつも通りだった。いつも通りの横柄なシュウ。でも、あたしが大学に行こうとしたとき、釘を刺された。
「今日は何コマ目まで授業なんだ?終わったら迎えに行く。余計な男には会わせないぞ」
あたしは戸惑いながらも、正直に
「3コマ目まで」
と答えてしまった。
「じゃあ授業が終わったら学生ホールで」
あたしは何も言わず家を出た。
正直、まだ実感がわかずにいた。シュウがちゃんとあたしを見ていたなんて。こんなに束縛してくれるほど思ってくれてたなんて。ちゃんと別れなくちゃいけないのに。今は紺井のほうが好きなのに。辛かった。シュウと別れるのが辛かった。でも、紺井といたい。今彼氏にふさわしいのは、シュウではなく紺井の方だ。シュウと別れなくては…。
授業が終わると、学生ホールでシュウが待っていた。黙ってあたしの荷物を持つと、歩き始めた。こんなの初めてのことだ。校内を出て、家までの道のりを歩く。
会話は、なかった。
そのときだ。メールの着信音の、キラキラ音が鳴り響いた。シュウの視線を痛いほど感じながら、携帯をポケットから出してメールを読む。
『今俺のうちにいるんだけど、これから仕事だからまたドライブ付き合わない?』
行きたい。そう思った。でも、シュウと一緒にいる今、行けるだろうか。
でも、気づいたら指が勝手に返信していた。
『今何とかそこ行くから。待ってて。』
携帯を閉じ、シュウを見る。シュウはまっすぐあたしを見ていた。
「用事ができたの。出かける。」
シュウは真っ向から反対してきた。
「ダメだ。男に会いに行くんだろ?行かせない」
「行くったら行くから。荷物返して。」
「返さない」
「じゃあ荷物おいてくから」
言うが早いか、あたしは駆け出していた。紺井の家はもうすぐ見えている。家の横に、紺井の乗った車があたしを待っている。
シュウは追いかけてきていた。
「おい!待てよ。本気なのかよ!」
追いかけてくるシュウの手を振り払って、紺井の車にすばやく乗りこんだ。すぐ、車はスタートする。紺井は、黙っていた。あたしもなんて言っていいかわからずに、言葉を探していた。
「まほ」
先に口を開いたのは紺井だった。
「なあに?」
「早く彼氏と別れて俺と付き合おう」
あたしは、深くうなずくしかできなかった。
紺井とわかれ帰ってくると、あたしはそっと家へ入った。家には電気がついていて、シュウが家にいることは明白だった。
「ただいま」
静かに言いながら部屋へ入る。
「おかえりー!」
予想に反して、シュウは明るくあたしを迎えた。
「なあまほ、3周年記念のお祝いだけど、まほが前行きたいって言ってた夜景のきれいな旅館、予約取ったぞ。ネットで予約したら安いんだ。」
パソコンの前に座って、わざとらしく元気なシュウ。わざとなんだ。無理してるんだ。
「あそこまでなら電車で行けるし、楽しめそうじゃないか?」
あたしも一緒に無理して、そのペースに合わせる。
「夜景、楽しみだね!ところでシュウ、夕飯は何にする?」
「俺ミートソース食べたい。100均に売ってるのでいいからさ。一緒に買いに行こうぜ」
その日、本当に久しぶりにシュウと夕飯の買い物に行った。いつもはあたしにまかせっきりで動こうともしなかったシュウ。この事態になって、それで慌てて優しくするなんてずるい。
旅行には行こう、と思った。夜景を見て、シュウとの最後の思い出作りをしよう。
今日は、シュウは授業がたくさん入っている日で、あたしは暇な日だ。家で、ボーっと紺井とメール交換をしている。
『彼氏と別れられそうか?それともやっぱり彼氏の方がいいのか?』
『そんなことない。別れるよ。でもその前に思い出作りをさせて。』
『思い出作り?そんなことが必要なの?』
『三年一緒にいたんだよ。最後くらいいい思い出で別れたいから。』
『彼氏をかばってるみたいで傷つくな。』
『ごめん、そんなつもりじゃないよ。』
『まほは俺の彼女でいいの?』
指先が震えた。決断をはっきりと言葉に表すときだ。
『うん。紺井さんの彼女がいい。』
送ってしまった。一つ、区切りがついた感じ。
後はシュウと思い出作りをして、さよならするだけ。
シュウとの旅行の日は、晴れだった。最小限にまとめた荷物を、シュウは持ってくれた。あれ以来、シュウは優しい。でも、この優しさは今だけだ。もしこのままずるずるとシュウと付き合ったとしたら、また横柄で気の利かない、あたしを悲しませるシュウに戻ってしまうだろう。
電車で、目的地を目指す。あたしは今日は楽しく過ごそうと決めてきたので、はしゃいでシュウと話していた。他愛もないおしゃべり、笑い声。これで最後なんだ、と思うと切ない気持ちになるので、あまり今後のことは考えないようにしていた。シュウは、
「まほがそんな風に笑うのなんて久しぶりに見たな」
と言って、あたしを少しナーバスにさせた。最近、紺井の前でしか笑っていなかったから。
旅館に付くと、まず二人で荷物を置いて、青臭い匂いのする手入れの行き届いた畳の上に寝転んだ。畳にくっつけたほっぺが、ひんやりと涼しくて心地よい。起きあがると、二人ともほっぺに畳の跡がついていて、そのことを笑い合った。
シュウといてこんなに楽しいなんて、いつぶりだろう。近所の観光宿に来たので、おみやげ物も珍しいものはないし、観光になんて行くはずもない。二人、することがなくてゲームセンターのコーナーで時間をつぶした。エアーホッケーに熱くなったり、UFOキャッチャーに熱くなったり。楽しい時間だった。でも、心の隅にはいつも紺井がいた。どんなにシュウと楽しい時間を過ごしても、紺井のことは頭を離れなかった。これが終わればあたしは紺井のものになれる。それを考えながら、シュウと楽しんでいた。
夕食はお部屋食だった。それに、買って来て持ちこんであったワインをあけた。
シュウが静かに、
「三周年記念、おめでとう。」
と言い、あたしは静かにうなずいた。グラスを軽く合わせ、ワインを飲む。
ずいぶん静かだなあと思ったら、シュウが泣いていた。泣き声も上げずに、涙をこぼしていた。
「三周年だぜ。やっと来た三周年。その前に好きなやつなんて作りやがって。」
絞り出すように苦しそうに、そう、シュウは言った。
あたしは何も言えなかった。謝ることは嘘になりそうだし、実際あたしはこの旅が終わったらシュウと別れるつもりでいるのだ。
シュウはすぐ涙をふいて、ごめん、と謝った。ごめん、こんなこと言って。
そこからは、夕食は楽しく進んだ。シュウは無理をしていたのかもしれないがはしゃいでいたし、あたしも無理をしてはしゃいだ。最後の晩餐。二人の、最後の夜。
お風呂に行っている間に敷かれていた布団は、一組だった。最後の夜だ。それも悪くない。
テレビを見て、夜もしんしんとふけてきた。眠ろう、ということになって、一組の布団に入る。シュウは、力強くあたしを抱きしめたあと、浴衣を脱がせた。生まれたままの姿になったあたしの、全てに唇をつけた。
「俺の腕」
そう言いながら、腕にキスする。
「俺の手のひら」
手のひらにキス。
「俺の指」
「俺のおでこ」
「俺の鼻」
「俺の頬」
「俺の唇」
シュウは、体のあちこちに、「俺の」という呪文とともにキスをしていった。
途中から、声が潤んで、涙の生ぬるい感触が体に感じられた。
シュウは、あたしにキスをしながら泣いていた。あたしも、切なさが我慢できなくなって泣いていた。
体の全てにキスが終わると、静かに、あたしの中に入ってきた。
最後のセックス。快感より寂しさが勝るセックスなんて初めてだった。これで最後なんだ、何度もそう思った。そして静かに、抱き合ったまま眠った。
翌朝、朝食を摂った。今日でシュウともお別れ。静かに姿を消す予定だった。旅館をチェックアウトし、家に帰った。家で、シュウは
「寝たりないから昼寝してもいいか?」
とあたしに聞き、(以前なら勝手に寝ていたのに)眠りについた。
あたしは少しづつまとめてあったシュウの荷物を居間に引っ張り出し、そっとシュウの鍵束からこの家の鍵を抜き取った。そして、メモを残す。"今までありがとう。あたしはやっぱり好きな人のところへ行きます。鍵はかけないままでいいのでそのまま出ていってください"
そして、自分は静かに自分の荷物を持って紺井の家へ向かった。
紺井の家へ行きチャイムを鳴らすと、紺井が出てきた。(今日は日曜日なのだ。)あたしの抱えている大荷物を見てびっくりしたようだけど、すぐに事態を把握したようで、招き入れてくれた。
「彼氏と別れてきたんだね」
「うん。」
「ありがとう。」
「え?」
「だから、ありがとう。」
「そっか、ありがとうか。でも、自分のためだから、そう言われてもピンとこないや。」
紺井は柔らかく微笑んだ。
「今コーヒー入れるよ。荷物置く場所つくんなきゃね。」
紺井と、素敵な生活が始まるような予感がした。今はまだ、引きずっているものが多すぎるけど、勇気を出して別れてきて、本当に良かったと心から言える日は近いだろう。
ほんの、一握りの勇気が生んだ、さわやかな風。この風が、あたしにとってなくてはならないものとなる日は近い。