第玖章 小雲龍・鄭舜永
(4)
境内に一歩足を踏み入れると、夜烏が数羽けたたましく喚いて飛び去った。
「何か出そう」
舜永は小さな声で言った。輝鴻は構わずどんどん中へ入って行くので、心細いが仕様がなくて後を追った。
「如何(どうし)た?」
輝鴻が振り返った。
「別に」
舜永は口篭った。暗くてよく堂の中が見えない。毀れ破れた障子から月影が洩るので、漸く其処等がどうなっているか判る程度だ。前を歩む男の肝が据わっているのか無神経なのかは判らないが、兎に角今は離れるわけにはいかない、と舜永は決めた。
その時であった。
背後から何れの者かが舜永の体を羽交い絞めにした。慌てて抵抗を試みたが、無駄だった。並みの力では無い。懐刀を抜き出す暇も無かった。
「救命阿(たすけて)!高大哥!」
輝鴻は振り向き様に剣を抜いた。手応えがあり、刃に銀色の幾筋が流れた。その一閃が舜永を捕らえた男の容貌を薄く照らした。一際高い背丈が黒く躍る。
誰かが放った短剣が輝鴻の剣を傷付けて落ちた。
その瞬時に冷たいものが輝鴻の目に飛沫を与えた。
「貴様、姜楚谷!」
輝鴻は瞬きの後、割舌も鋭く唸った。
姜楚谷は、皮肉に唇を歪めた。幅広刀の尖った先が舜永の柔らかい喉に押し当てられていた。
「鳩が豆食らった顔だな。だが、さっき貴公が倒したのは私の手下だ」
姜楚谷は、低い声で言った。
「剣を捨てろ、高輝鴻」
「ふん。脅しているつもりか?その孩子は今日会ったばかりで私には何の関係も無い。生捕りなり、殺すなり好きにしろ」
輝鴻は剣を持ち直した。姜楚谷は、首を傾けて苦笑いした。
「とぼけなさんな、私を担ごうたって無駄だ。この孩子の顔は知っている」
「何の事だ?」
「貴公達が霍提督から預かった所操之業(しごと)だろう。この孩子を捕まえて来いというのは」
啓目したのは舜永の方だった。思わず輝鴻の顔を見た。青味を帯びた光を貯えた両眼が、少年の驚愕に彩られた顔を見詰め返した。
まさか高輝鴻は端から自分の正体を知っていたのか。それで広州まで送り届けてやるなどと言ったのか。
だが、目の前の不敵な微笑は何も語らない。舜永は困惑した。
「まさか貴公、何も知らないでこの孩子を助けたのか?殊勝な事だなハハハ」
姜は、目を細めて笑った。初めてこの男の笑声を聞いた意外さに、輝鴻は些か面食らった。
「見ろ」
姜楚谷は言って、舜永の懐に手を入れた。舜永はまるで物の怪に出遭ったかのように、大袈裟にびくりと背を伸ばした。
錦の袋から取り出されたのは、二つの玉(ぎょく)であった。
姜楚谷の掌に載った青玉と白玉は、鈍い光を放っていた。明らかには見えないが、龍様の彫刻が施してあるように見えた。見たところ、取り立てて何の変哲もないありふれた玉のようにも思える。
「目的はその玉か」
「さて如何なものかな」
姜楚谷は神妙な面持ちのまま、錦の袋を自らの懐に仕舞った。輝鴻は終黙然(だまって)剣を床に投げ捨てた。そうするより他に無かった。
「だが貴公。孩子をこのまま攫って行っても構わぬのだな」
「……はん。どうせ五千両は前払い。孩子はしくじって逃がしたとでも報告するより仕方あるまい。金を返せといわれたらその時はその時だ」
輝鴻ははったりでなく、思うがままを言った。
「貴公もとんだ痴郎(まぬけ)だな。みすみす獲物を手中に収めて置きながら」
「何とでも言え」
輝鴻は仁王立ちのまま、姜楚谷を見据えていた。姜楚谷は、舜永の喉に刃を当てたまま、後退した。
「高大哥!」
舜永は叫んだ。
高輝鴻は無言で舜永の遠ざかる姿を見送った。
不意に膝の力が抜けた。目が翳む。否、俄かに熱を帯びて来た。恐ろしく瞼の裏が熱い。火箸で刳り貫かれるような熱さに、輝鴻は耐えられなくなった。
そうしてそのまま倒れ込むと、指の一本も動かせなくなってしまった。
第拾章(1)に続く
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