第玖章 小雲龍・鄭舜永
(3)
人影がぼんやりと姿を現した。手に手に剣を構えた無頼者たちである。
舜永は首を振った。
「違うよ。狙われているのは僕だ。奴等、前にも僕を襲って来たんだ」
「どういう事だ、それは?」
「今は説明してる暇はないよ。早く逃げて高大哥!」
輝鴻は舜永の頭を右手で軽く掴んだ。
「お前みたいな弱孩子を放って逃げる程、私は侠気の無い人間じゃないぜ。高輝鴻さまを舐めて貰っちゃいかん」
「高大哥」
輝鴻は五本矢を束ねて弓を引き放った。各々の矢が孤を描いて飛ぶ。
その様が美しいので、『流星矢』と呼ばれる弓技だ。輝鴻の祖父もこの射法は得意だった。しかし、何といってもまだ物心つくかつかないかの頃に韃靼人の元に居た事は、輝鴻の弓の腕を漢人の名手に異ならしめる要因である。
一発必中。
そうでなければ無意味だ。馬の世話をしながら見よう見まねで跨り、弓を握った。奴隷といっても将来的には韃靼人は輝鴻を騎馬兵にするつもりがあったらしい。資質を見抜かれての事だった。
無頼者を倒した後、焚火を消し、輝鴻は舜永を乗せて愛馬に跨った。黒瑤という名の牝馬である。
「やれやれ、とんだ事になったな」
輝鴻は呟いた。舜永は顔を上げた。夜の微風に靡く輝鴻の赤い髪から芳しい香のような匂いが漂っていた。成人男子の焚き染める香ではなく、西方人独特の甘い体臭なのかも知れない。
「ごめんね」
「不妨(かまわん)さ。何だって追われてるんだ?何をやったんだお前。見掛けに寄らず随分悪たれなんだな。私も昔は一通りの事はやったがな。念秧(ごまのはい)、美人局(つつもたせ)、博奕(ばくち)―」
「あんたと違うよ!」
舜永は思わず大声で言った。言ってからしまったと思ったが、一旦口にしてしまった事は取り消せないので只、肩を竦めるしかなかった。
真是(そうだな)と、輝鴻は嘯くように言った。
月が雲間に隠れると、星ぼしが見えた。冷え冷えとした空気が同行二人の首筋を撫でて行く。黒馬の鬣が舜永の腕に纏わって流れる。輝鴻の表情は至って穏やかで、微笑さえ浮かべているように見えた。
「私が今までに何人の武侠を倒したと思う?」
舜永は黙っていた。
「私にもよく判らん」
と、輝鴻は他人事めいて言った。
「多分二百人、いやもう少しだろうか。ピンキリ含めた数でだ。最初は覚えている粛州に逃げ帰る時にタタール人の兵士を殺した。母親の持っていた釵(かんざし)で鼻の此処を一突きだ。知ってるか?鼻の骨には一箇所薄い所がある。其処を針で刺すと一ころだ」
輝鴻は自分の鼻梁の付け根を指して言った。
「そんなの知るもんか。僕はそんな実践的な武術など習った事無い」
「覚えておくといい。縫い針一本で人を殺せる」
「武術は人殺しの為にあるもんじゃないよ」
「頑固者め」
輝鴻は笑った。舜永は溜息を小さく吐いた。この男は確かに弓矢の腕は比類ない名手だ。人柄も虚飾は無い。しかし、他人を圧倒する明け透けな物の言い方をする。或る意味残酷だ。
「僕の見込み違いかなぁ。好い人だと思ったんだけど」
それは境遇の違いと経験の差、というものかも知れない、と舜永は思い直した。舜永に逃げろと言った時の表情には計算ずくのものは感じられなかった。
「それに、韃靼にいた時の事を語ったこの人の目は少し悲しそうだった」
舜永は、輝鴻の顔を見上げた。
「でも兎に角有難う。大哥がいなかったらどうなってたか」
「礼は無復爾(よせ)。これも何かの縁だ。応天府まで連れてってやろう」
「真是(ほんとう)?」
ああ、と輝鴻は深く頷いた。
「その代わりと言っては何だが、お前の姉さんを当作冰尾斧(しょうかい)しろ」
ちぇ、と舜永は舌打ちした。
「嫌だよ。高大哥に会わせるには勿体無いね!広州一の美人だもん」
舜永は少し顔を赤らめた。姉さんっ子なのだろう。
「そりゃ願ってもないね」
山路に入った。杭州は古都である。古寺や遺跡は少なくない。西湖の西には霊隠寺という東晋時代に開かれた山寺があり、その周囲は天竺山と呼ばれる山である。天竺山にも寺は点在している。幽玄の世界に迷い込んだような景観が続き、安徽省の境まで来ると天目山になるのだ。
天目山は東西あって、双方とも山頂に池がある。それが天の目玉のように見えるので天目と呼ばれる。かつては禅寺の道場が多く存在したものだ。
廃寺が見えてきた。
禅宗の盛んなりし頃に建てられたものだろう。鬱蒼とした黒い木々に囲まれている。輝鴻は黒瑶の歩みを止めた。
「今夜はもうこれ以上進めない。馬も休めないと不可(いけない)し、お前も眠った方がいい」
二人は馬を下りた。
(4)に続く
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