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  小雲龍・鄭舜永

(2)

 少年は名を舜永と言った。そう、実は冒頭で戴志麟に出会った少年と同一人物なのである。しかし、輝鴻はこの少年がそうとは知らない。
 陽が落ちた。途端に寒さの帷(とばり)も下りて来た。
「弓は誰から教わったの?」
 舜永は訊いた。
「祖父だ。だが、その前に韃靼(タタール)にいた事がある。京師の北部だ」
「どうして?」
「粛州にアルタン汗が侵入して来た時、攫われて奴隷として育てられた。十歳くらいまでだな」
 輝鴻は琵琶の調律をしながら焚き火に当たっていた。舜永はその中高な横顔に見入った。日に焼けているが、元来白い肌に薄い唇、長い睫毛をした目の碧色、赤味掛かった髪も南方の広州で育った舜永には珍しい。西洋から来る仏郎機(フランキ)なる外国人よりは随分親しみ易い容貌である。
「奴隷って」
「奴婢と言ってもそれほど非道く虐げられていた訳じゃない。私は元々漢人じゃなかったし、タタール人は漢人を脅してはいたが、我々ウイグル族とはそう反目していたというのではなかったようだ」
 輝鴻の担った仕事は雑用だった。子供ゆえに苛酷な労働は強いられなかったが、馬の世話や掃除はそれなりに辛いものだったといえよう。母親の碧少は―言うまでもないが婢女(はしため)としての伽の相手をさせられる事もあった。輝鴻はその事は敢えて喋る気にはなれない。
「アルタン汗に会った事もある」
 ふうん、と舜永は言った。
「広州には行った事ある?」
「いや」
 広州と言えば今の広東省である。市舶司が置かれているように南海貿易の拠点でもあった。しかし、京師から見れば三千里(約千六百キロメートル)以上も南の州である。
「一人で出てきたのか、広州から」
 唯(うん)、と舜永は答えた。
「何処へ行くんだ?」
「応天府」
「応天府?そりゃ、まさか科挙にでも行くのか」
 舜永は苦笑した。
「莫迦にしないでよ。阿姉(ねえさん)に会いに行くんだ。あんたこそ、こんな所で何してんだよ?」
「孩子(ガキ)には関係ないな」
 ふん、と舜永は口を尖らせた。輝鴻は憎めない少年だと思った。奇妙に人懐っこいのも兎も角、不思議な雰囲気のする子供だ。何処か浮世離れしている。
「一寸眠いんだ。一寝入りするから見ておいておくれよ」
 舜永はそう言うと、輝鴻に背を向けて草の上に横臥に寝転がった。疲れ切っていたのか、ものの数分と経たないうちにすやすやと軽い寝息を立て始めた。
 焚火の炎が次第に小さくなっていった。
 東天目山の麓からは、服鳥の鳴き声が聴こえてきた。服鳥とは、みみずくやふくろうの類である。古からこの鳥が鳴くと不吉な事が起ると言われている。もし梟が家の中に飛び込んで来たらその家の主に不吉があるという凶兆の鳥である。
 賈誼という前漢(前201年頃〜?)の文人に『服鳥賦』という文がある。其処にも左遷された筆者の不運が服鳥に仮されて書かれている。
 とまれ、姿の他鳥に比しての奇異さや鳴き声が凶事を印象づけたのだろう。しかし、服鳥の吸い物は美味い、と輝鴻は思った。
 輝鴻は耳を澄ました。背後から弓を取り、腰を上げた。音を立てないように静にかに鳴き声の方向へ近付いて行く。
 下弦の月が中空に懸かっている。
 服鳥の声が止んだ。羽ばたきの音が聞こえると同時に、輝鴻は矢を放った。服鳥の飛び去る方向へではない。
 「ぎゃっ」
 男の悲鳴が聞こえた。茂みの中から肩を射抜かれた男が倒れて這い出して来た。と、ともに殺気が一気に集まった。
 輝鴻は暗い茂みの方を向きながら、素早く後退さった。複数の何者かが此方を伺っている気配がする。今にもその達者たちが躍り掛かって来るのは間違い無かった。輝鴻は焚火の所まで戻ると、舜永を揺り起こした。
「起きろ孩子(こぞう)!」
「何だよう、眠いのに」
 無理矢理叩き起こされた舜永は、半身を起こしてはっと息を呑んだ。慌てて懐を探り、何事も無いのを確かめた。
「何だか理由は知れないが、私は狙われているようだ。お前は逃げろ」
 輝鴻は舜永の肩を掴んで、闇を見据えながら言った。

(3)に続く
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