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  青風・戴志麟

(5)

 父の送葬を終えて成都から戻ってきた志麟に邱覚仁は言った。
「家業を継ぐかね?継ぐというなら山を降りても構わないと思う」
 いえ、と志麟は答えた。二十歳前の青少は、精悍な面構えになっていた。成都で阿稟と呼ばれていた頃のあどけなさはもう無い。
「家督は義兄に任されています。今更私が戴家の主だといっても、家人は首を縦には振らないでしょう。主と名乗る者が何年も家を空けていたというのは、家人の許すところではありません」
「尤もだ。私もそれで得心がいく」
 邱覚仁はそう言うと、三尺余りのやや弓なりに反った剣(チェン)を取り出した。金箔の飾りが施された黒い鞘から、刀身を抜いて見せた。
 鈍く光を放つ刃に灯火が流れ落ちて妖しい輝きが零れた。如何なる刀匠の手に拠るものかは、志麟には判りかねたが、稀に見る名剣であることは間違いない。その銀色の刃を、夥しい数の武人の血が流れ落ちたことだろう。背筋がぞくりとなり、総毛立った。
「《斬風剣》だ」
 邱覚仁は静かに言った。
「今日から順天派の第一高手は戴志麟である」 
 志麟は言葉に詰まった。剣身を両手に受けようとして、その手がはた、と止まった。まるで触れてはならない物に触れようとして自制したかのような仕草だった。
「私のような不肖の者が?高大哥ではないのですか?」
 と、志麟は膝の上で拳を握った。邱覚仁は相変わらず穏やかな光を湛えた双眸を志麟の怪訝そうな顔に向けた。灯火の下で見る師匠の顔は、初めて会った時より随分老けて見えた。が、不思議と精気に満ち溢れていた。
「《斬風剣》は、お前にのみ引き継がれるのだ」
「何故ですか?」
 志麟は詰問した。
「お前が有資格者であるからだ」
「輝鴻が漢人ではないからですか?」
 邱覚仁は首を振った。
「漢人だろうとなかろうと、男であろうと女であろうとそれは関係ない。高輝鴻には最初からその資格はなかったのだよ」
 その資格の最も重要な部分は、「童貞」を守るということである。
 何故、童貞でなければ有資格者に成り得ないのかは、このとき志麟には判らなかった。
 肉体的、精神的要素以上に、制度を捨てるという意味が強かったのである。この場合の制度とは、家族制度のことである。
 家族がいないということは、子孫がいないということであり、死しても墓を守る者の一人もいないというのは、漢人にとって忌むべき事だったのである。人を罵る時に「子無し」というが、これは『孟子』のいう「不孝に三あり。後嗣なきを大となす」の考えである。儒教的思想では、嗣子のないのは孝行ではなかった。
 家族制度を放棄せねば、順天派の荘主を継ぐ事は出来なかったのである。一見、矛盾した考えのように思われるが、そうして武林の汚濁と世襲を防ぐ必要があった。

 輝鴻は既に十二歳の時には女を知っていたし、もとより本人には武林を継ぐ気など無かった。
 だが、邱覚仁が見抜いたのはそれだけではない。志麟の剣の腕は確かに優れていた。天性というものだろう。が、高輝鴻の剣の腕もそれに劣るものでなく、騎射にかけては恐らく邱覚仁の今まで見た武人の中でも抜群の才覚を示した。《神箭手》と呼ぶほどである。学問は嫌いだが、頭の回転は志麟よりもずっと速い。
 しかしながら、何れが第一高手として継ぐものかと問われれば、やはり志麟である。
 それは、邱覚仁が初めから決めていたことなのである。
「では、何故端から私一人を弟子にしなかったのですか?高大哥は単なる付き添いだと」
 志麟の濃く太い眉尻が上がった。
「輝鴻はお前にないところを補ってくれる男だ。お前は、真正直過ぎて曲がった事が嫌いなのが難点での。直言の士は禍を免れん」
 志麟は恐縮した。
「あの男は、武運に限らず才智と外交手腕に長じている。癖がある為に人に拠っては好き嫌いがあるだろう。だが、懐を開けば、それこそ命をも賭けてくれるに違いない。お前には得難い存在だと踏んだのだが」
 邱覚仁は、従容として顔を緩めた。志麟は何だかあまり心地のいい感じは抱けなかった。まるで兄弟子を自分の股肱とするのは、人一倍「孝」の精神に篤い志麟には心苦しいものだったからである。
「もうこれ以上教える事はない。もしも、何かあったら今一度此処を訪ねて来るといい。留守にしているやも知れんがの」
 邱覚仁はそう言い、志麟は何度も叩頭平伏するようにして礼を尽くした。
 それ以来、戴志麟と高輝鴻の二人は青郎山には登っていない。
 今夜は琵琶の音も流れて来ない。志麟は寐台(ねだい)に転がった。何があったのかはよく識らないが、こんな事は初めてだ。
「高大哥がヘソを曲げるなんて事、天地開闢(てんちかいびゃく)以来あったかしらん…」
 輝鴻がぷい、と行方を眩ませて両日。
「何かしたんだろうか、私としたことが高大哥に失礼な事を。いや、日頃私に失礼なのは高大哥の方じゃないか!幾ら弟弟子だからって、好き放題『放屁(バカ)』扱いしてくれるし」
 志麟は、ここ数日の出来事を反芻した。しかし、思い当たるような事は無い。腕を頭の後ろに回して横臥すると、何時の間にやら晩酌の酒が回ってきて吃逆(しゃっくり)と欠伸が交互に出た。
 そうして、そのまま一睡の谷間へ誘(いざな)われて行ったのである。さながら桃の花の爛漫に咲き誇る桃花源でも垣間見ているのだろうか。幸福な少年の寝顔になっていた。

第玖章(1)に続く
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