第捌章 青風・戴志麟
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「錦城」といえば、現在の四川省・成都市のことである。成都平原の中部に位置し、二千年余の歴史を誇る古城の一つであるが、最も馴染み深いのは、かの『三国志』の劉備が三国鼎立の際に蜀漢の首府としたということだろう。
「成都」とは、紀元前四世紀以前に既に蜀の都と成っていたことから名付けられた。
「錦城」というのは成都が錦繍の産地だからである。市の南を流れる検江は、その水で洗われた錦の鮮やかさが格別であったため、錦江と呼ばれた。
また「亀城」という異称もある。これは戦国時代の逸話によるものだ。城を築こうとして、しばしば城壁が崩れたために、なかなか工事が進まない。或る日、大きな神亀が川から這い出てきてそこらをぐるりと一回りした。占者が神亀の這った後に沿って城を築くとよい、といったのに従ってみると、果たして城壁はしっかりと建ったという。
なお、中国では都市を「城」と呼んだ。狭義での「紫禁城」などとは違う。城壁に囲まれた街全体を指す。もともと「城」は「つちへん」に「成」という字の作りであることからして戦に備えた街なのだ。「成」は「武器の製作に呪祝を加える」といういささか魔術的な宗教的な意味合いである。
壁を作って防備せねば、街の安全は確保されないという思想は、これはヨーロッパにも同じ事がいえた。中国もまったく同じである。
ところで、明代、成都は成都府と呼ばれた。その西北に斜めに走っている山地があるのだが、そこに青郎山という山があった。
戴志麟がはじめて青郎山を訪れたのは、十歳の頃だった。
きっかけとなったのは、その三ヶ月ほど前の出来事である。
志麟の父親は、成都後衛の長官であり、若かりし頃は武勇の人であった。現在でいう、県警など地方警察署の署長のようなものだ。志麟が生まれたのは、嘉靖十年であるが、父・戴尚奇(ダイ シンケイ)は五十路に入っていた。信じ難いとは言わないまでも、遅い子供である。というのも、戴尚奇にはそれまでに五人の子供がいたのだが、総て女子で、それも四人は当然ながら他家に嫁いでいたのだ。
「この年になって男子が生まれようとは…。嗣子(あとつぎ)がないのをあきらめておったのに」
戴尚奇は、嬉しくも悲しい溜息を吐いた。
戴家では、既に四番目の娘に婿を取って後継とする事が決まっていた。前にも述べたように、地方衛の武職は世襲である。戴尚奇は千戸所の中でも特に武術に秀でた周(チョウ)という若者をを四娘を娶わせていたのである。
今更、それを取り消すわけにも行かない。
「よいではありませんか、郎君(あなた)。この子は私達の最後の授かりものとして、大事に育てましょう」
と、戴尚奇の糟糠の妻は言った。この正妻が、齢四十余にして生んだのである。それはそれは、赤子は目の中に入れても痛くない、というが如く可愛らしかった。
「まるで孫の世話をするようだ」
長姉の子供は既に二子をもうけていあたので、本当に孫のようであった。
やがて志麟も成長する。
その名の通りに天性を秘めた子供であった。読み書きはさほど好きではないが、武芸者の片鱗を見せることは多くあった。
ところが、何処にでもこの手の話は転がっているのか、姉婿である周は志麟の才能を次第に恐れるようになった。
「稟(リン/志麟の幼名)はまだ子供なのよ。野心などないわ」
四娘は夫に向かって言った。しかし、周は成長した志麟が自分を凌ぐ武人になることを予測していた。この先見は正しい。
志麟も子供ながら、義理の兄に疎まれていることは承知していた。判ってはいたが、その事を父に告げようとは思わなかった。
(2)に続く
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