第七章 海商・謝克基
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聞く者がどきりとしないではいられない大胆な発言だった。もし、監生がいたら謝克基は打たれていたかもしれない。
「これは異なことを。ははははは」
馬沖儀は大笑した。本当に可笑しかったようである。
「私は朝廷に入って二十数年になるが、そのような質問を受けたのだ初めてだ。確かに私は、二十三歳の時に自ら宮したが」
「いえ。大変な御無礼を致しました。汗顔の至りです。どうか、お赦し下さいますよう」
謝克基は、叩頭した。顔を上げなさい、と馬沖儀は言った。
「実は私が申し上げますのは、他でもない太監、貴方様に御子がおありだと密かに聞きましたものですから」
「私に?何かの間違いであろう。養子もおらぬ」
訝る馬沖儀の顔を謝克基は、じっと息を潜めて見た。
「太監は河西の御出身だそうですが、粛州という街に心当たりはございませんか?」
「粛州…」
馬沖儀は、独り言のように呟いた。
二十八年前は、確か粛州の衛にいた。埃っぽい砂の舞う街。人種のるつぼ。国境の地である。思えば粛州から出発した出世街道であった。名も無い回教徒の青年だった頃のことだ。
謝克基は、暫く沈黙を意決め込んでいた。回想の海に放り出された人間は、放って置くしかない。
「私が聞いたのは、或るウイグル人の商人からです。ふとした事で話題となったのですが、既に数人の耳を経ておりますので不確かで」
謝克基の四白眼が、馬沖儀の蒼褪めた表情を見詰めていた。
「御名前もわかっています。御子の名は、梁星連と」
馬沖儀は、漸く我に返った。
「梁?粛州巡撫だった梁か?」
「梁巡撫はタタールの侵攻で亡くなっておいでです。従って、今は母方の姓を名乗って折られると思われます」
馬沖儀は、思わず頭を抱えた。脂汗がどっと全身に滲み出した。
どうやら思惑通りだと、謝克基は胸中で笑った。この話をウイグル人から聞いたというのは、嘘ではないが無理矢理脅して問うたのである。この男の才覚は、優れた情報収集力に発揮されたのだ。
衛所から戻って来た謝克基は、いつも通りの表情でいた。
「どうだったの、阿哥(にいさん)?」
白虹は屈託無く尋ねた。柱に凭れて膝を立てている。衣の短い裾がはだけて、素足が明らかになっていた。無邪気な仕草が、他の船員達を刺激しているなどと、この妹は思っていないらしい、と謝克基は苦笑した。
「上手く行ったかどうかは判らん。手ごたえは悪くなかったが」
馬沖儀の焦慮と苦悶に満ちた顔が、今も目に浮かぶ。
「この件はくれぐれも口外しないで欲しい」
この件とは、言うまでも無い。宦官である馬沖儀に子供がいる、という事である。
「口外などとんでもありません」
その代わりとして、謝克基は或る事を提示した。他でもない、それは温国亮の私貿易を取り締まって欲しいという事である。これも自分の立場を棚に上げて、大胆な意見であった。
「倭国の商人に言わせれば、温公は破格の安価で絹・錦を売るものの、粗悪品も多々あって、いただけぬと憤慨しております。この際、市舶司停止に乗じて厳重な警告をなさっては如何かと」
馬沖儀は口篭った。温国亮から袖の下を受け取っている手前、直ちに諾々とは言えないのだろう。謝克基は、しかしそれ以上の返答は期待しなかった。先刻の話の効果を信用していたからである。
「私は賄賂で官人を動かすような凡人ではない。この舌先一つで総てを上手く収めてやる」
というのが、謝克基の口癖になっていた。その自信が示す通り、実に謝克基は頭の切れる男なのだが、こと温国亮との件に関しては彼の頭脳をもってしても蔽い切れない欠点があらわれていた。
それは、怨恨である。
謝克基の父は新安商人で、温国亮グループの一員だった。新安とは安徽のことだが、古くは塩商人として知られていた彼等が銭塘江下流に進出して盛んになったのである。今では海商として押しも押されぬ地位にのし上がった温国亮も、昔は小商いが精一杯の商人だった。
そうした連中が集まって「パン」というギルドを作り、互助しあって序々に勢力を広げて行く。大きくなった「パン」には、自ら抜け出して独力で商業活動をしようとする者も生まれれば、内輪揉めも少なくない。
謝克基の父親は、謝興民(チェ ヘンマン)といった。洞察力の鋭い男で奇才があり、温国亮らの頭脳として働いていた。「パン」が武装を強化した時、当時広東に出入りしていたポルトガル人から鉄砲を購入しようと提案したのもこの男だった。
ところが、集団がある程度巨大化すると、こうした才気に溢れる人材は疎まれやすくなる。奇抜な事をしなくても、商売が安定してきたからである。これはいつの世でも同じ事だ。
或る時、積荷の中から大量の絹が忽然と消えた。
そして翌日、謝興民の元から大量の金子が見付かった。グループ内の荷を私的に売買し、利益を隠匿しようとした、という罪で謝興民は私刑に処せられた。
無論、冤罪であって、これは疎ましくなった謝を組織から葬り去ろうという温国亮らの計略だったのである。
「父は陥穽(あな)だと知りながら、刑を受け、死んで行った。何故だか判るか?白虹」
いえ、と白虹は首を振った。
「己を恥じたのだ。温国亮が義理を欠いた人間だと判っていながら、些細な仲間意識の為に束縛されていた自身をだ」
「そんなのは、父さんの所為じゃないわ」
白虹の瞳が潤んでいた。生意気なようでもまだあどけない少女だ。
「案ずるな、妹妹(いもうと)よ。私は父とは違う」
謝克基は、妹のか細い肩を抱いて慰めた。
兄妹が肩を寄せ合い、こうして生きてきたのは、それはひとえに怨恨の成せる業でもあった。謝克基は、係累を頼り、倭国へ渡り、いつか温国亮に復讐することだけを考えてきた。謝克基は皮肉な微笑を浮かべた。
「私は己の心に従うまでよ」
その機会は、意外にも早く訪れたようだった。
第捌章(1)に続く
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