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  海商・謝克基

(3)

 宦官と一口に言っても、各々の政務を持っている。簡単に挙げておこう。
 十二監は、司礼・内官・御用・司設・御馬・神宮・尚膳・尚宝・印綬・直殿・尚衣・都知という内訳で、字面を見れば大体の職務の察しはつく。尚宝監といえば、朝廷の宝璽や勅符を掌握する役目であり、御馬監は衛営の執務を行っていたのである。
 太監、といえばその長であり、正四品の位を持つ。
 現在の日本国政府でいえば、防衛庁長官のようなものだ。
 この馬沖儀に関しても、謝克基は調査済みである。
 実際に馬を目の当たりにして、成る程、と謝克基は思った。
 髭の無い顔は去勢の所為で幾分女性的な面差しになっているが、眉目は秀麗である。漢人ではない。彫りの深い顔立ちは、ペルシア系のようである。
「これが倭国にて採取された辰砂(しんさ)でございます」
 謝克基は、恭しく言った。
 馬沖儀は、赤色をした結晶を見詰めた。
 辰砂とは赤色の硫化水銀で、水銀を採る原材料であり、煉丹術の材料として欠くことの出来ない物質である。
 『神農本草経』には、「不死」をもたらす鉱物として挙げられている。
 今上帝である嘉靖帝の外丹法の為に用いるのだといって、この辰砂は届けさせられた。
 ところで。世宗・嘉靖帝は明朝第十二代の皇帝である。憲宗・成化帝(1447〜87)の第四子、興献王・朱祐元の子であり、従兄・正徳帝の弊政を正し、宮中の人員整理を実施した。
 しかし、亡父を皇帝として祀るかどうかの「大礼の儀」に熱中の余り、論争の結果、意見を異にする廷臣を二百人以上も解任、投獄した。
 その皇帝は、いま道術に熱中している。
 就中(なかんずく)、「青詞」というのがある。
「青詞」とは、道教の祭祀に用いられる祝詞のようなものであって、青藤紙という青い紙に朱筆で記す文章である。この「青詞」の作成如何が、現在の宮廷での出世条件であった。
 厳崇(げんすう)という宰相は、「青詞」をよくし、「青詞宰相」と皮肉られた人物である。「大礼の儀」では、皇帝に諂って以来、寵愛を受けるようになった。
 前に「宰相」は存在しない、と述べたが、厳崇は各省大臣の首輔として「宰相」と呼ばれたのである。
 さて、嘉靖帝が道術に凝り始めておよそ八年ほどになるが、いまや政務を完全に放棄して西苑(北海・中南海)にこもってからというもの、厳崇・世蕃父子の専横真っ只中。
 この辰砂も、一旦は厳崇の手に渡らねば嘉靖帝には届かない。何しろ、厳崇以外の廷臣とは、謁見しないのだ。
「この男。いや、老公も厳崇の息が掛かっているのだろうか?」
 謝克基は、馬沖儀の顔を上目遣いに伺った。必ずしも、そうとは限らない。
 この男の目付きは、自分と似ている。野心家の目だ。己も一方ならぬ野心を抱くが故に、謝克基は馬に不穏な空気を読み取ったのである。厳崇を出し抜く気か、はたまたそうでないのかは定かでないが、何やら一波乱ありそうな予感がする。
 そして、京師のほうでは、既に波乱が勃発していた。
 生憎、謝克基は北方の状況をそれほど把握していたわけではない。だが、しばしば情報屋から仕入れるねたを、心に留め置くこともある。
 明国の帝都は、南京・応天府から、北京・順天府に遷都されていた。燕王であった永楽帝が南京を落とし、即位の後十九年後である。以来、この時まで約二百三十年ほど北京が首都として機能してきた。
 その北京が韃靼(タタール)・瓦刺(オイラート)の侵攻を受け、包囲されたのである。タタール・モンゴル族のアルタン汗の侵入であった。
 アルタン汗の活躍は、1542年ごろから目覚しく、しばしば南侵して明の国境を悩ませた。
 所謂「北虜南倭」のために明朝は憔悴したというが、その「北虜」のほうである。
 1546年には延安、慶州に侵入し、そしてこの年直隷に入寇し、北京に迫った。
 「庚戌の変」である。 

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