第七章 海商・謝克基
(2)
何聲は、頬に掛かる髪を掻き上げた。月の光が流れ落ちて、女剣客を青く彩っていた。そっと、その仕草を眺めていたのは、一人の娘である。謝克基の姿が見えなくなると、娘は少し離れたその場所から出て、船縁に身体を預けた。
「阿哥(にいさん)をたぶらかしてどうするの?」
娘は挑戦的な目付きで、言った。黒目勝ちの瞳が猫のように光りを放っている。若々しく蓮っ葉な感じだが、あと二三年もすればもう少し色気が出て来るだろう。謝克基の妹・白虹(パクホン)である。兄とは一回り以上も年が違うので、十五、六歳といったところだ。
唐風に結った髪の端を二つに分けて垂らしおり、露出度の多い衣服。小脇に琴を抱えていた。
この娘が何聲に敵愾心をあからさまにするのには、少々訳がある。
「言い寄って来るのはあちらよ。どんな下心があるのかは知らないけども」
何聲は言った。白虹は鼻を鳴らした。
「あんたが相当な女狐だってことは充分承知の筈なのに、兄さんときたらだらしない。こんな年増の何処がいいのよ」
「年増で悪かったわね」
と、何聲は嘯くように言った。
「案ずることはないわ。貴方の兄さんなんてこちらから願い下げだから」
何聲はそう言って笛を懐に収めると、船からふわりと桟橋に飛び降りた。白虹は、黙ってその姿を見送った。複雑な面持ちの娘は、半ば疑心、半ば嫉妬を抱いていた。何の利害が一致して兄は鄭何聲に拘わっているのか、白虹には納得がいかなかった。
夜が静かに更けて行く。
今しばらく《両風侠》を離れて話を進めねばならないが、ご容赦願いたい。
翌日、空は薄曇りを呈していた。謝克基の乗った車が杭州の浙江都司の官舎へと向かっていた。浙江都司といえば、提督・霍希錦である。都司は五軍都督府所属の衛所であり、つまり中央軍部の地方出張所のようなものである。五軍都督府とは、左右中前後の軍都督府の総称であり、浙江は左軍に所属している在外の衛所であった。
その長たる霍希錦は、無論中央の人間である。本来の官職名は霍希錦都指揮使司なのだが、京営の提督と兼任であったので、霍提督と呼ばれている。
明代の武職には世襲できる「世官」と、世襲できない「流官」の二通りがあった。「世官」は衛の指揮使・指揮同知・指揮検事・衛鎮撫・千戸所の正・副千戸・百戸所の百戸・試百戸・所鎮撫の九等があった。地方衛の長官から属官・千人隊長・百人隊長などは、世襲制であったのだ。
一方、「流官」は中央五軍都督府の左右都督・都督同知・都督検事・各処都指揮使・都指揮同知・都指揮検事・中都および南京留守司の正留守・副留守んも八等と、京営、鎮戌総兵官処の武職である。
問題は、こういった上級職が勲臣と一部の高級世襲武官に限られた人事交流となってしまうことである。
霍希錦も、その澱みから外れた人材ではなかった。
武芸は達者であったが、それだけで出世したのではない。武職で身を立てている霍家においては、都指揮使の職は、ほぼ世襲といってよかった。
ただ、世襲武官でも配下に武芸を披露する際に「百に一能無き」状態の者は少なくなかったので、霍希錦は実力もさることながら、余計に引き立てられたのである。
「朝廷の栄光を被る人間達に、今更くれてやる品物も何もないんだがな…」
謝克基は、かごの中で頬杖をつきながら思った。
「しかし、探りを入れるには好都合だ。何しろ奴等はこの私が倭寇の腹心とは知らぬ筈だからな」
そう考えると、気の進まぬ召喚も心持ち愉快である。
しかし、今日は霍希錦の依頼ではなく、京師から視察に来ている御馬太監の馬沖儀という宦官の呼び出しであった。
(3)に続く
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