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  海商・謝克基

(1)

 雲に覆われていた月が、再びその姿を現した。青白く艶かしく傾く十七夜は、鄭何聲の白い頬をより明るく照らし出していた。海は凪いでいる。銭塘江に碇泊している船に、それぞれ灯りが点っていた。船縁に腰を下ろし、何聲は笛を手にした。ほんの手遊びに弄んでいた楽器であるが、十年来彼女の徒然の友となっていた。口唇が静かに押し当てられると、尖鋭な澄み切った音色が流れ出した。
 今宵の銭塘江は穏やかである。
 先日の小海嘯が嘘の様に思える静けさだった。海嘯の凄まじさは、唐代の詩人もうたっている。劉禹錫(りゅううしゃく)の「浪淘沙」という楽府詞の中に「巻き起こる沙堆は似たり」という句がある。
 この海嘯はまた浙江潮とも呼ばれた。『水滸伝』では、花和尚・魯智深が六和塔で銭塘の海嘯の音を聞きながら死ぬことになっている。
 何聲の繊い指が鋼糸を繰り出した先刻とは別の生き物のようにたおやかに動く。
 黒い海に泡のごとく潮は寄せ、寄せては返す。
 船室から、人影が現れた。
「切ない音色だ」
 と、男は言った。何聲の眉間が寄った。
 男は戴方巾を被って、その下から髪を長く垂らしていた。ちょっと都会風に洗練された好い男である。眼つきに特徴がある。三白眼というのはよくあるが、この男は四白眼だった。稀に見る奇相。美男子だが、何処か常人離れした雰囲気でさえある。
「恋でもしているのか?」
 男は冗談半分に言って、何聲の端麗な顔を覗き込んだ。何聲は、露骨に男の視線を避けて、沖の方を見遣った。
「本気にするな、あんた程の女だ。遠近の男が放って置かないだろう」
 男は、はははと笑った。
 この男、謝克基(チェ ハッケイ)という。この船の主でもある。年の頃は三十歳に届くかどうか、というところだろう。実はこの謝はもともと浙江の人間であるが、今は日本を本拠として生活する海商である。海商といえば聞こえはいいが、海賊つまり倭寇の腹心なのだ。倭寇はこうした現地に詳しい人間を参謀としている。
「温国亮の首をいつ持ってくるんだ?我が船主はお待ちかねのようだぞ」
 我が船主とは、謝克基の総首である日本人商人のことだ。真垣一成(まがき いっせい)という男で、もとは大名級の士(さむらい)だったらしい。如何なる経緯で海商に手を出したのかは、何聲の知る所ではなかったが。
「そんな事は、私の気が向いたらに決まってるでしょう」
 何聲は、漸く唇から笛を離した。
 謝克基から話を持ちかけられて、およそ一月経っている。謝克基自身は、出来ればもう少し先でもよい。色々と進行中の計画もあって多忙であるし、何しろこの美しい女刺客との付き合いがこれきりかと思うと、じらされても文句は言えなかった。
「あんたの気が向くのはいつなのか、訊ねてみたいね」
 何聲は、男に冷たい視線を向けた。初めからこの男とは馬が合わない。仕事でさえなければ、顔を合わせる気も起こらなかった。
「今、それどころじゃなくなったわ―もう少し待てないかしら」
「一度失敗したからな。温のやつも用心深くなってるようだし」
「戴志麟という凄腕の剣客を雇っているわ。まだ若いけど、大した腕よ。そこらの武林荘主じゃ叶いっこないわね」
 知道(しっている)、と謝克基は頷いた。
「それで臆したか?」
「いえ。貴方の口出しすることじゃないわ」
 つれないものだな、と謝克基は何聲の手を取った。何聲は男の手を柔らかく振り払った。紅い唇がきつく結ばれている。
 謝克基は、肩を竦めた。気の強い女だ。直ぐに靡く女では面白くない。益々興が湧くというものだ。
「あんたが仕事を追えるのが淋しくてね。もう会えないかと思うと」
「それは貴方の本心なの?それとも船主の命令なのかしら?」
 何聲は冷たい微笑を投げ掛けた。
「勿論本心だ」
「莫迦らしい。これ以上倭寇などに係わる気などないわ」
 利用こそすれ、それは殆ど本心である。
 ベツ子門の倭寇も、実は謝克基らの手引きに拠るものだった。真垣一成の扱う品は、主に鉱産品であった。金・硫黄・銅、中には日本刀もあった。明国の商人が仕入れるのは生糸であり、これはどの商人もほぼ同じである。しかし、漢方薬や書籍なども持ち帰れば、かなり良い価でさばくことが出来た。ベツ子門では、毛織物商との交渉が決裂し、襲撃という結果になったのだが、思いのほか大規模に終わったのは、杭州の温国亮への見せしめという意味も含まれていたのだ。
 彼等は、ほぼ一年程前から温国亮と貿易を行っていた。日本からの硫黄と金を下ろす代わりに、杭州からは生糸と古着を入手していた。ところが、例によって貢舶貿易が半永久的に停止されることになると、途端に温は愛想を失くしてしまった。
 それが一応朝廷への迎合であることは判っていても、日本側には好ましからぬことである。しかも真垣一成は、温国亮にとって新来の客であるからそう義理立てする必要も無かった。そこへ登場したのが、謝克基だった。 
 謝も本来は新安商人のグループの一員だっただけに、内部の事は知り尽くしている。
「私にお任せ下されば、貴方を倭国随一の貿易家にして差し上げましょう」
 という謝克基の口車に乗った真垣は、この明国人を腹心とし、以来みるみる実績を上げてきたのである。
 何聲は、謝克基の舐めるような視線から目を逸らした。謝克基は、それを悟ってか、やがてゆっくりと背を向け、再び船底に戻って行った。去り際にこう言った。
「あんたの夢でも見ながら一眠りしよう。せめて、夢ではつれなくしないでくれよ」

(2)に続く
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