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  市舶司廃止

(1)

 話は変わって、新安商人・温国亮の邸に場面は移る。今宵は画舫遊びではなく、この広い邸において宴会が催されていた。つい二晩ほど前にあのような事が起きてからというもの、温国亮は妓楼通いを控える心づもりでいた。
 かといって、髭面のご面相ばかりも味気ないものであるから、当然妓女たちはこの邸に呼び寄せられたのだ。
「懲りない老頭児(ジジイ)なんですね、まったく」
 戴志麟は呟いた。宴会は酣(たけなわ)といったところだが、この男は始まって一刻を過ぎても酒盃には指一本触れず、房室の片隅で腕組みをしている。それが志麟の仕事でもあった。霍希錦に言い付かっているからである。気が進もうが進むまいが、温国亮の護衛役を務めねばならなかった。
「鄭何聲が依然として温船公の首を狙っていることは、確かなのですからね…」
 志麟は周囲を見回した。酒宴の席には、温国亮とその部下、近しい杭州の商人達の他に官人もいた。その中に、新挙人・潘卓とその従兄の去縛の姿もあった。
 温船公、つまり温国亮は、杭州では名だたる実業家であり、その家は元の時代から大店を構えていたという。先にも少し触れたが、新安商人はヨーロッパで言う『ギルド』に似たグループを組み、朝廷に口出しをするようになった。その橋渡しをしたのが宦官であることは、言うまでもない。
 明代は皇帝独裁政権である。宰相は存在しないことになっている。
 皇帝直属の六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)、内閣、都察院、五軍都督府(軍事)が中央政府を構成している。各地方は布政使司が里甲制に基づいて府・州・県・郷の行政を敷き、都指揮使司が各衛・千戸所・百戸所の軍事を管轄し、按察使司が監察に当たった。
 簡単に言えば、このような仕組みである。
 何故、宰相が置かれなかったかというのは、想像に難くない。宰相の権力集中を避けたいがためである。内閣には、内閣大学士が置かれた。
 総ての決定権は、皇帝にあった。しかし、当然のことながら政務を皇帝一人で処理する事は不可能であり、秘書役である内閣大学士の権限が強まり、皇帝の日常生活を囲んでいる宦官の力が増大する結果となったのである。
 たとえ民間では強大な力を有していても、無官の人間は皇帝に謁見することはかなわない。そこで皇帝の意見を左右させたくば、朝廷の人間と通じる他に方法はない。
 それも一般の廷臣よりは宦官であった。
 温国亮の目的は交易権の掌握にあった。
 東洋交易について、一口で説明するのは容易ではない。
 暫く退屈な叙述が続くかと思われるが、ご容赦願いたい。
 「市舶司」という言葉は、中国史にはさほど詳しくなくとも耳に覚えのある単語かと思う。唐代から既に市舶司はあった。『淵鑑類函』という書物の巻百九の「提挙市舶」の引く所、『彙苑』に拠ると、
「唐有市舶使、以中郎将周沢為之。有広州市舶使」
 とある。五代時代(907〜960)は、呉越地方は日本と通交していた。この時代の海港と称すべきものは、松江・明州・温州などであった。明州は杭州に近く、海の玄関として発達しやすかった。
 宋(960〜1127)が元来杭州にあった市舶司を明州に移したのは、淳化三年(992)であるが、しかしその翌年にはまた杭州に復設され、六年後明州にも置かれた。
 南宋(1127〜1279)になってから、西浙・福建・広南に市舶務が置かれ、両浙のそれは臨安(杭州)・明州・秀州・温州・江陰軍の五箇所であった。
 『乾道臨安志』巻八十八に、
「餘杭四明、通蕃互市、珠貝外国之物、頗充於中蔵」
 この記事によって、当時の貿易の盛況の一斑がうかがえる。
元代に至って市舶司の改廃が大幅に行われ、至治二年(1322)に泉州・慶元(明州)・広東の三箇所にだけ市舶司提挙司が置かれ、これは明代にも引き継がれた。
 明州は日本、泉州は琉球、杭州は占城(チャンパ)、ビルマ、西洋諸国のために備えられた。
 現在したがって対外貿易の中心は、この三港である。
 ところが、今その内の浙江市舶司が廃止されようとしている。
 貢舶貿易が招いた弊害が、その原因であった。話は一旦途切れるが、再び温国亮邸へ戻ろう。


(2)に続く
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