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  神箭手・高飛鴻

(5)

 「凄凄として向前の声に似ず、満座重ねて聞き、皆泣をおおう。座中泣(なみだ)下つること誰か最も多き。江州の司馬、青衫(さん)湿う…」
 歌が終わった。その時、鄭何聲は扇を翻して扉に向かう。指弾の如く投げ放った。
 扉が開いたと同時に、何聲は立ち上がり、剣を抜いた。
 立っていたのは、背の高い無精髭の男だった。
「おや。いきなり刃を向けるとは物騒な妓楼だな。しかも、妓女一人いない部屋だとは」
 高輝鴻は、座したまま面を上げて男を見た。
「昼間の―霍希錦のところの私兵か」
「姜楚谷(ギョン チョウコク)だ」
 男は名乗った。正面を向いた姿が、飛鴻を見下ろした。左目は眼帯によって覆われているが切れ長の右目に光りが宿った。輝鴻よりも背丈はある。だが、何処か幽鬼のような影が付き纏う男だ。外見よりも年経ているのかも知れない。
 鴻は、琵琶を膝の上に置いたまま、盃を取った。手酌で白酒(パイチュウ)を注ぎ、一気に呷った。
「現世(うつしよ)のものとは思えない音色と歌声が聞こえたので、思わず聞き入ってしまった。無骨者のうぬでさえ、心に浸み入った」
「あんたも只の剣客とは思われないな」
 飛鴻は、低く呟いた。
 何聲は剣を鞘に収めた。姜楚谷と名乗った男のなりを見て、徒に剣は抜くべきでないと悟ったからだ。この男、物静かながら百戦錬磨の風格がある。だとすると、官人上がりだろうが、それにしても怪しい。人ではない物すら、あっさりと斬り倒してしまうやもしれない。
 何聲は金子の入った小袋を、輝鴻の膝に放り投げた。
「貴方がこの間《嫦娥楼》の女将に払った見物料よ。そっくり返すわ。貴方は私の為にこれを払った。今度は私が貴方の為に払って、これで貸し借りは無し」
 何聲はそう言って、音も無く出て行った。扉をすり抜ける前に一度だけ輝鴻を振り返った。頗る不機嫌そうな表情だったが、輝鴻はまるで見ていなかったようである。
「佳麗(いい)女だな。男のなりをしているのには、何か事情がありそうだが」
「とんでもないはねっかえりだ。見た目は巫山の神女のようだが、生憎あまり私の好みではない」
 輝鴻は、苦笑した。巫山の神女とは、古の楚国の王が夢に見た美麗なる仙女のことである。この場合の「見た」というのは言うまでもない男女の情緒を示す。それ以来、男女の交わりを「雲雨」という故事にもなっているが、その話はいずれの機会に。
 姜楚谷も、珍しく微かな笑みを浮かべたようだった。「好みではない」と、若者の言っている言葉が、本気とは思われなかったからだ。
 輝鴻は、小袋を手に取った。女の懐の温もりが感じられた。
「貴公らが探している孩子(こぞう)の事を教えて差し上げよう」
「ふん、成る程。わざわざその為に妓楼くんだりまで、御苦労なこった」
 輝鴻は、琵琶の軸を締め上げながら、言った。
「で…?」
 姜楚谷は、右目を光らせた。
「忠告しておこう。その孩子は決して、霍希錦の元へ連れて行ってはならない」
 輝鴻は唇の端を引き上げた。
「凶事(まがごと)のタネになるとでも言うのか?」
「真是(いかにも)」
 楚谷は低く答えた。輝鴻は、弦をぎゅ、と締め上げた。指が滑って糸を弾く。
「五千両の話をパアにするかねぇ。それともあんた…」
「分け前欲しさに言うのではない。それは貴公の相棒にも言ったが。霍希錦だけではない、およそ此の世の権力欲に取りかれた邪鬼どもに、その子を渡してはならないのだ」
「ふん」
 楚谷の青白い頬に飛んだ。
「面妖な話だな」
「いま一度、考えられよ。その子の『異能』とやらを、聞いているのなら」
 楚谷は隻眼の顔を背けた。そうして、輝鴻の血を拭いもせず、房子を出て行った。
 輝鴻は、甚瘠痒哉(じれったい)な、と思ったが黙っていた。それよりも、白酒の酔いが全身を巡って来たようだった。
 

第陸章(1)に続く
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