第伍章 神箭手・高飛鴻
(4)
輝鴻はしたたか酔っていた。上戸であるが故に、滅多なことでは酔いつぶれる事はない。だが、ほろ酔い加減はとうに越していた。盃を弄びながら、手枕で鼻歌を歌っていた。
妓女達は既に追い払われていた。座敷には、輝鴻一人である。
「呆れた男ね」
入ってきたのは、鄭何聲だった。いつもの男装の姿だった。笠を取ると、何聲は膝を立てて輝鴻の前に座った。輝鴻はくすんだ笑顔を見せた。
「一杯どうだい?」
ふん、と何聲は笠を投げ捨てた。輝鴻の差し出した盃が、飛んだ。だが、それは次の瞬間、何聲の手の中にあった。
「さんざか遊んでおいて、払う金子もないクセに、よくやるわ」
「キミの方こそ何しに来たんだ?今度はここで働く気かい?」
まさか、と鄭何聲は笑った。
「貴方の琵琶を聴きに来たのよ。どうせ文無しでしょう。お礼に幾らか払うから、それで妓楼の支払いを済ませるといいわ」
輝鴻は目を伏せた。頬に皮肉めいた笑みが、うっすらと浮かんだ。
「断るよ」
「施しのつもりなどじゃないわ」
「なら金は要らない。必ずしも、金を貰う為に弾いているのじゃない」
「気に触ったのかしら?」
何聲は訊いた。
「何だか気乗りしない」
輝鴻は半身を起こした。何聲は、振り返ったその瞳が心なしか潤んでいるように見えた。
壁際に立て掛けた琵琶を、輝鴻は手を伸ばして引き寄せた。
「歌ってくれるか?」
輝鴻は言った。何聲は傍らにうち棄ててあった扇を手にした。
「潯(じん)陽江頭夜客を送り、楓葉萩花秋瑟瑟たり。主人は馬より下り、客は船に在り、酒を上げて飲まんと欲するに管弦をなし、酔うて歓を成さず。惨惨として将に別れんとす。別るる時、茫々として江は月を侵す―」
白居易(白楽天)の「琵琶行」である。白居易といえば、中唐後半の高名な詩人であることは言うまでも無い。
「琵琶行」は、元和十一年(816)の秋に作られた。その序には、元和十年に白居易が九江郡の司馬に左遷され、その翌年客を送り、舟中で夜琵琶の声を聴いた。
その歌声は、長安(現在の西安)の人間のものと判り、問えばもとは長安の唱女(うたいめ)が弾き手であったという。容色衰えた女は、商人の妻となったのである。曲を終えての女の言は、若かりし頃の華美な生活の後、今は憔悴して、こうして江湖の間を移ろっている寂しさであり、白居易はこれに感じてわが身を重ね、長句六百十二言を作ったという。
琵琶の音は当然、当時のものとは異なる。
胡人・高輝鴻の弾く琵琶であり、異国情緒に満ちていることを考慮に入れて想像して頂きたい。
「忽ち聞く、水上琵琶の声。主人は帰るを忘れ、客は発せず」
扇を顎に当て、何聲は目前の輝鴻を見た。火取蛾が迷い込んできた。
「声を尋ねて暗(ひそ)かに問う。弾ずる者は誰ぞと。琵琶の声は停(や)み、語らんと欲して遅し。船を移して相近付き、むかえて相見、酒を添えて灯りを回らし、重ねて宴を開く」
チリチリ、と音がして蛾が炎に焼かれた。
輝鴻は目を伏せたままである。弦の一本一本を押さえて弾き、まるで啜り泣くような音色が続いた。歌詞の通りだ。
『掩按(えんあん)抑あつ』という弾法がある。喉に飲み込むような幽怨の音を生み出す奏法だが、今の輝鴻の演奏はそれに近かった。
ちなみに、唐代までの琵琶の演奏は撥(ばち)が用いられたが、宋代以降は指先で爪弾くようになった。「すう弾」という。日本では古の風が残っているようであるが。
「今夜君が琵琶の語を聞き、仙楽を聴くが如く、耳暫く明らかなり。辞する莫れ、更に座して一曲を弾くを。君が為に翻して琵琶の行(うた)を作らんと」
輝鴻は目を開いた。
琵琶の音が急調子になった。
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