第伍章 神箭手・高飛鴻
(3)
沙駒には一人娘がいた。名を碧少(ピクシウ)という。碧玉のような美しい青の眸を持っていたので、名付けた。少、はちなみに「わかい」という意味である。
碧少はやがて美しい娘に成長し、その頃粛州で一応の店を構えていた沙駒の生計を助けるために酒肆の舞台で歌舞を披露していた。艶めいて可憐な容姿と舞踊が粛州の人々の噂に上らぬわけがなく、碧少は程無く一人の若者と恋に落ちた。
その若者も漢人ではなかった。ペルシア系の回(イスラム)教徒の青年であった。回教徒の有名人といえば、宦官・鄭和を思い浮かべられる。
鄭和は靖難の変で功績を立て、成祖・永楽帝の命を受けて計七回の南海遠征を行った人物である。余談だが、眉目秀麗にして喨喨たる声であったという。
この若者は果たして鄭和に倣ったかどうか知れないが、大志を抱いて官軍に仕官した。しかし、何分盛族の出身でもなければ漢人でもない。出世の糸口は掴めそうになかった。
中国というのは、比較的古くからボーダーレスに人材を集めていたが、それが人種的偏見がない、ということのバロメーターにはならない。能力があれば漢人だろうと胡人だろうと、朝廷に仕えることは簡単である。とはいっても、少数派は兎角、厳しい目で評価されるのに変わりはなかった。
若者はそこで、思い切ったことをやってのけたのである。
自宮、つまり自らの男性機能を除去した。宦官になったのである。
明代の宦官は、権力を持っていた。宦官の横暴の為に、しばしば争乱があったほどである。
その後の若者の行方は杳として知れなかった。
碧少は、この時身籠っていたのだが、若者は己の出世の為に妻子もろとも切り捨てて、粛州を去ったのだ。
傷心の碧少は、折りしも粛州の巡撫(長官)に見初められ、請われるままに妾となった。八月ばかりして生まれた子供が星連(シンリン)という男子であった。
これは明らかにイスラムの若者の子供であるのだが、長官は何も言わずに自分の子として育てることにしてくれた。
こういうことはよくあったが、それにしても心の広い長官だったといえよう。
梁星連(リョン シンリン)というのが、高飛鴻の本名なのである。
ところが、母子の生活は穏やかなものではなかった。当時粛州は度々、北方の韃靼人に脅かされていたのだ。星連が三歳の時、韃靼の侵入が起こった。
北狄は粛州の長官邸を荒らし回り、碧少母子を攫って行った。高沙駒が助けに走った時は、既にその姿は無く、長官もその他の妾達も大勢が殺されていた。
沙駒は妻を疫病で亡くし、一人わび住いを続けながら、商売していた。彼が取り扱っているのは毛織物や貴金属であった。
「こういう時に、わしに詩才の一つでもあればのう」
沙駒は煙管をぽん、と打って溜息を吐いた。妻も娘も孫も失った老人の口をついて出て来た言葉である。
一人きりになって、六年程経った、或る春の午後のことだった。
ふと面を上げると、十歳ばかりの少年が店先に立っていた。十歳ばかりといっても、殆ど背丈は十四、五歳の子供と変わりないほどであった。精悍な身体つきをしていた。伸び切った裸の手足は砂埃に塗れて傷だらけである。
率いているのは、北方産の逞しい蒼馬で、鞍など付けていない。
少年は、じっと沙駒を見詰めていた。背なには長い、自分の背丈よりも長い弓を負っていた。
沙駒は、立ち上がって少年の顔を食い入るように見た。
「お前、星連か?」
蓬髪は頬と同じく砂に汚されていたが、赤みを帯びて柔らかく、一点を見詰める瞳は碧色をしていた。
少年はゆっくりと頷いた。たどたどしい漢語で、答える。
「母さんは、死んだ」
蒼馬の背中に乗せられているのは、紛れも無く碧少の亡骸であった。沙駒は駆け寄って、その冷たくなった身体を抱え下ろすと、我が娘の名を呼んだ。皺ぶいた老人の目尻を涙が伝った。
少年は、無表情にその姿を見詰めていた。
二人は丘陵に碧少の亡骸を埋葬した。沙駒は少年の肩を抱いて言った。
「お前、北方では何と呼ばれていた?」
「名前なんかないよ」
「では、わしが新しい呼び名をつけてやろう」
丘陵の向こうの沼沢から、奇しくも一羽の野鴻が飛び立った。
「鴻、輝鴻としよう。高輝鴻だ。野鴻は気高く、取るに足りない俗鳥に混じる事はないという。お前がどんな労苦を強いられたかは、わしの想像の及ぶところではないが、けして韃靼人に阿(おもね)り暮らしたのでないことはわかる」
星連、いや輝鴻はこの時初めて、祖父の前で涙を見せた。わっ、と声を上げると、地面に突っ伏して大声で泣いた。堪えに堪えていた悲しみと安堵が、堰を切って溢れ出したのだろう。十歳の少年が、母親の死骸を伴って何日も何十里も逃げ延びてきたのである。余程の決心だったに違いない、と沙駒は思った。
翌日、沙駒は店をたたみ、輝鴻と共に粛州を出た。
祖父と孫の二人旅が始まった。
この後の事は、戴志麟を抜きにしては語れないので、話は一旦ここで終えることにする。
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