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  海嘯濂濂

(1)

 海嘯のおさまった銭塘江河口では、再び画舫が静かに浮き始めた。港では焚き火が揺らめいていた。炎の描く光りに彩られた頬を動かして、戴志麟は向かいに胡座している相棒の顔を見た。
 高輝鴻は黙ったまま琵琶を一心不乱に奏でていた。何も見詰めず、瞼を固く閉じたままである。
 十弦の糸が互い違いに小刻みに震え、泣いているようでもあり怒っているようでもあり、また何か物言いたげでもある。楽器というものが演奏者の心裡を反映するのならば、今の輝鴻は頗る不機嫌であった。
 年来(としごろ)、この男は何かと琵琶を弾くが、音色は正直なものだ。
「高大哥」
 と、志麟は二の腕をさすりながら呼び掛けた。上半身裸になって火にあたっている。
「怒りたいのはこっちですよ、輝鴻」
 輝鴻は何も聞いていない。目を閉じたまま琵琶を弾き続けている。
「輝鴻」
 輝鴻の額に汗が滲んでいる。志麟はじっとその顔を見詰めた。と、途端に瞼が開いた。琵琶の音がぴたりと止む。
「高大哥と呼べ。何、他人の顔じっと見詰めてるんだ?気色悪いヤツ。お前やっぱり龍陽(ロンヤン/ホモセクシュアル)だったのか?」
「…死了(スーラ/死ね)!迂哉(ウーサイ/バカ)!」
 志麟は顔を真っ赤にした。輝鴻は琵琶を傍らに置いた。
「私は怒ってなんかないぞ。お前が温国亮の用心棒をすることになったのも、大体察しがつくからな」
 志麟は後ろ手に酒の入った瓢を取り出し、口につけた。一口飲んで輝鴻の前に差し出したが、輝鴻は断った。風は凪いでいるが、少しばかり肌寒い。
「霍希錦(フォク ヘイガム)提督の命令ですからね。温国亮は朝廷の金ヅルっていうことでしょう」
 と、志麟は衣を羽織った。
「霍提督に会ったのか?」
 いえ、と志麟は首を振った。
「伝令が来たんです。三日前杭州に着いたばかりに。高大哥こそ何やってたんですか?あの女、ベツ子門で会った女じゃないですか」
「鄭何聲?」
 輝鴻はにやりと笑った。女の話になると機嫌が良くなるらしい。
「雲龍三門の前荘主・鄭家勇の娘だ」
「鄭家勇の?」
「ああ。嶄然新艶(いいおんな)だ。絹糸のごとき黒髪、白磁の肌膚(はだえ)、紅珊瑚のようにつややかで柔らかい唇」
「何です、それ?もしかして…」
 志麟は、濃くりりしい眉を顰めた。その眉尾は不思議にも、二岐(ふたまた)に分かれている。この眉には由縁があるのだが、それは又、別章にて。
 輝鴻は鼻を鳴らした。
「お前の考えるような事はなんにもないよ、残念ながら。ちょっとやそっとで手に負えるようなタマじゃあない」
「彼女に対して野心でもあるってこと?」
 志麟は皮肉を込めて言った。輝鴻は立ち上がった。腕組みをして沖合を眺めている。画舫の灯りがちらほらと海面に映っていた。
「…女に惚れるなんて、貴方らしくもない」
 と言いつつ、志麟はあの時の掌の柔らかい感触を思い出した。顔が火照るのは酒の所為だけではないだろう。自分でも意識できるだけに、気恥ずかしく、兄弟子に悟られるのがもっと嫌だった。
 奇妙なくらいに胸の鼓動が高まる。画舫でも、《斬風剣》を手にしていなければ、あっさりと鄭何聲の色香に惑わされていたのは己の方だったに相違無い。
「はん。女をモノにしたところで野心を果たしたことになるか」
 輝鴻は言い切った。
 志麟は相棒の姿を見上げると、輝くような表情で言った。
「じゃあ、この仕事ちゃんと遣り遂げますか?」
 輝鴻はむっつりと黙っていた。この男ときたらいつの間にやら金を手に入れる程の貨殖上手で、金運の無い志麟にとっては有り難い兄弟子であり相棒なのだが、極めて官人嫌い。
 官人の依頼だけは滅多と請けた記憶が無い。五指で数えて余りある程だ。
 二人で用心棒稼業を生業に、かれこれ四、五年になる。しかし官人嫌いの理由は、志麟も今だによく判らない。
 浙江都指揮使司(明軍における浙江支部長職)・霍希錦の依頼など、果たしてまっとうするかどうか。志麟は、あの時即答を思い留まったほうが良かったのではないか、と今更後悔しはじめた。
「高大哥?」
 返事はない。
 志麟は酒を煽った。折角、大きな仕事を頂戴出来たというのに、何だか雲行きが怪しくなってきたようだ。


(2)に続く
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