第参章 女侠・鄭何聲
(5)
と、その時である。燃え盛る帷の間から、一人の剣士が躍り出た。小舟にいて様子を伺っていた高輝鴻は我が目を疑った。
「戴志麟!」
鄭何聲は、叫んだ。青い袿衣(けいい)に緋の外套を靡かせた若者は斬風剣をかざして女剣士と向き合った。
「貴方、温の用心棒?真的那(まさか)」
「そのまさかです」
志麟は、大きな眸を見開いた。
「あのバカ…!」
輝鴻は思わず笠を脱いで舟底に叩き付けた。こともあろうに、敵味方に分かれているとは。
「どういう事なの高輝鴻、説明して頂戴!」
何聲はみるみる眉尻を吊り上げた。
「説明して欲しいのはこっちだッ。何でお前が此処にいるんだ志麟!この腐れ嘴巴(ヅォイパ/男性器の卑称)の童貞仔(童貞ヤロウ)!風狂児(きちがい)!」
輝鴻の罵倒に、志麟はやれやれ、と溜息を吐いた。
「いつもの事ながら、また女人の色香に惑わされてるんですか?」
冷静を装った声音だった。
「何でもいいから、兎に角、救命阿(ガウメンア/たすけてくれ)!」
温国亮は志麟にしがみ付いた。二人の鋭い視線が交錯した。かたや男装の麗人、両刃の剣を抜き、かたや斬風剣の使い手《青風麟》。これで二度目の対峙である。
輝鴻は悩む必要も無い。この場で両人を無視して弓を取り、温国亮の胸を貫けば片付くのだった。しかし、武人としてそれは出来ない。
何聲は袂から紅い糸を引き抜いた。飾り組紐が解かれていく様は、波が小舟を揺らすよりも数倍は速かった。白い指の動きに同調して糸が繰り出される。
勢い向かって来た絹糸を、志麟は斬風剣で刻む。女剣士は糸も使うのか、と志麟は今更ながら驚愕した。
見蕩れるような鮮やかな指の動きと速さは、飛刀を扱うに似ていた。如何にして伸び行くか、計り知れなかった。しかし、糸の長さに限界はある。
問題は、限界までにこちらが朦朧としてしまうだろうという危惧にあった。
「はッ!」
志麟は糸を払い除けると、斬風剣を構えて刀身に船の点す灯りを反射させた。剣の描く孤に合わせて、光りが乱反射し、胡蝶が舞うような残像を向かう相手に与える。
「《光波蝶舞の剣》」
と、輝鴻は呟いた。志麟は相手が男だろうが女だろうが、手加減無しだ。《光波蝶舞の剣》は奥義ではないにしても、生半な相手に見せるものではない。
何聲の全身に緊張が漲った。
絹糸は効かないと判ると、この距離感では得意の飛刀を使うしかないが、してやられたものだ。
己の糸が繰り出す幻影をお返しされたのだ。屈辱といって差し支えない。しかも、目の前の剣士はまだ少年と言ってもいいくらいに何処かあどけない雰囲気を残した面差しだ。
「舟が…」
輝鴻は不意に小舟の底が小刻みに揺さぶられるのを感じた。船頭は、おっといかん、と慌てた。振り返ると、船という船は一斉に港に引き揚げて行くのが見えた。
「満潮ですじゃ」
沖合いの方から波が重なって押し寄せて来る。この現象は「海嘯」というものである。地球上には大なり小なり、この「海嘯」現象が古くからあちこちで記録されている。南米のポロロッカ(大海嘯)然り、ヴェネツィアのアクアアルタ(高潮)然り。
銭塘江の河水は、杭州湾の満潮と衝突すると潮水が壁となって、河口めがけて流れ込んで来るのだ。
「大海嘯」は旧暦八月十五日の頃に起こるが、このような「小海嘯」は珍しい事ではなかった。
波が炎上する画舫を港に向かって押し出した。しかし、既に半分以上炎に覆われていた画舫は、波の圧力で崩壊し始めた。
「おい何聲!志麟!」
輝鴻は叫んだ。自身も波に揺られて舟底にへばり付いたまま、画舫が河口に沈んでいくのを見た。
第肆章(1)に続く
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