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第参章  女侠・鄭何

(4)

 画舫が斜交いに見えた。河口は凪いでいる。
「で、次なる荘主はキミではないとしたら、直系は途絶えたということか」
 いえ、と何聲は首を振った。
「荘主は弟になるわ。六つ年下の弟がいるの。父が死んだ時にはまだ赤子だったから、私が代理を務めていただけの事であって。尤も、閉門中の身で何も出来る筈はないけれども」
「復興の望みはあるさ」
 と、高輝鴻は言った。軽薄な口調だが、何聲は気にしなかった。所詮は他人、それも出会って間もない得体の知れない男に言われたところでお愛想くらいの気持ちで受け止める。
「望み。望みなら叶う事もあるわ。いえ、現実の物にすると、父には誓った」
 輝鴻は頷いただけで、何も言わなかった。
「次は貴方が話す番よ」
 何聲は静かに言った。画舫からは、賑やかな声が洩れ聞こえて来た。
「私は只の流れ者。見れば判るが、やくざな雑胡に過ぎない。別に他人に話す事などないさ」
「順天武林の高輝鴻ともあろう者が、謙遜するのは可笑しいわ」
 何聲は含み笑いをした。男装が板についていて、笑う仕草も全く違和感無かった。
 盃には荒気酒が充たされていた。輝鴻は先程から随分と呑んでいた。アルコール度数八十という、火を噴くような酒を平然と飲んでいる。顔色は変わっておらず、語気もそのままだった。
「うちの師匠は、あまりこの事を世間に知られたくないらしい。その、弟子を取ったということだが」
「しかし、《斬風剣》の高手は誰が継ぐというの?」
「こないだ刃を交わしただろう。あの剣だ」
 あれが、と何聲は盃を置いた。戴志麟が持っていた鈍い銀色の光を放つ剣を、思い浮かべた。使い手の心一つで剃刀のようにもなり、鉈のようにもなるという剣と聞いている。
 何聲は酒を口にした。低く笑う。少し酔いが回ってきたようだった。
「なるほど、《斬風剣》なら、私も歯が立たない筈だわ」
「使い手自身は兎も角な」
 輝鴻は溜息を吐いた。
「師匠は後継者を一人欲しかったんだ。武闘争いを好まぬ人でな。《斬風剣》を先代から受け継いだ時、自ら武術界の争いから退いたという。たまたま師匠の目に留まったのが、私と志麟だったという訳だ」
「兄弟子の貴方が、《斬風剣》を継がなかったのは何故なの?」
 そう聞かれて輝鴻は、うーむと唸った。
「興味が無かったからなぁ。大体弟子入りしたのも、志麟の付き添いだったんでな。端から野心も無いし、面白おかしけりゃそれでいい」
「剣よりも女を口説く方が愉しいという訳ね」
 輝鴻は、否定はしなかった。苦笑を押し上げただけだ。
「しかし、剣は然程得意じゃない。騎射では誰にも引けを取らぬ自信はあるが」
 琵琶や胡笛と同様に親しんできたのが、射芸であった。胡人といっても騎馬民族とは限らないのだが、輝鴻の祖父はトルコ系ウイグル人であったので、伝統的に騎射をよくしたのである。馬術と弓には輝鴻は自負を持っていた。
「その腕に期待するわ」
 期待か。別の部分に期待して欲しいものだな、と輝鴻は琵琶を奏でながら、独りごちた。
 街の灯が遠ざかって行く。輝鴻の暗い碧眼は、水面を見詰めていた。
「夜深皓月風多少、夢浅繁星無尽笑…」
 何聲は朗々と歌い始めた。歌声は画舫の客達にも聞こえたらしい。隙間から小舟を覗く人々もいた。
 船頭が櫂をとめた。輝鴻は琵琶を弾く手をおいた。後ろ手に長弓を取り、素早く矢先を灯心に近付けてつがえた。対面の画舫を狙った火矢は窓を破いて宴席のど真ん中に入ったようである。妓女達の騒ぐ声が上がった。
 何聲は立ち上がると船縁を蹴って、軽々と画舫に乗り移った。火矢は忽ち帷に赤々と炎を燃え上がらせ、それは行灯に引火した。ぼう、と音を立てて火の手が上がる。中から、温国亮らが慌て惑いつ飛び出して来た。
「賊だ、賊だ。誰か早う別の舟へ!」
 われ先にと、仲間の商人の舟を呼び寄せようとする。しかし、思うように他の画舫はやって来てくれない。
 温国亮は転がるようにして、盃を投げ出し、舟尾まで辿り着いた。慌てて海に飛び込んでしまった者もいる。妓女達は、小舟の若い船頭に助けられている。
「おお、助けに来てくれたか!」
 温国亮は、目前の黒い長靴を見て叫んだ。
「賊とは、私のことかしら?」
 と、見下ろしているのは鄭何聲であった。
「お、お前。蝶…」
 言おうとして、温の言葉は詰まった。尖った刃先が鼻に向けられていたからである。
「貴方に直接の怨恨はないが、御首(みしるし)頂戴する」
 

(5)に続く
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