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第参章  女侠・鄭何

(3)

「しかし、温国亮を殺してしまうのは余り得策とは言えないだろうな。雲龍三門とあろう者が、そんな危なっかしい橋を渡る必要があるのか?」
「とんでもない。だったら私が今此処にいる筈もない」
 何聲は不平を顕にして言った。
「貴方も知っているでしょうけど、雲龍派はもともと三つの武林の集まりよ。南門、西門、東門の三つが併合されたのは、私の祖父の代から。でも所詮は三門の利害が一致しただけの集合体に過ぎなかった故に、こうなった」
 明代の武術界というのは、盛んを極めていた。一つには官界の武職軽視というのも原因する。武人にも、武科挙はあった。及第すれば上級武官になれる。しかし、一般の話題にはそう上るものではなかった。また北方民族の侵攻が重なると、国営の兵士だけでは心もとなく、各地方の衛は私兵を抱えるようになる。民間人も丸腰では危険な世の中となると、自然と武術も振興し、それにつれて新たな武林が続々と生まれるようになってきた。
 世界ではもう御馴染みの少林寺などは、こうした武林とは意義を異にする。それは、坊主が殺生を戒めとしながら飽く迄身一つ(棒術などもあるが)で闘うのに対して、武林高手は殺したもん勝ちだったからである。
 武林の荘主たちは、そうして朝廷の股肱となって働きながら、権勢の奥へ入り込んでいこうとしていた。商人たちと違うのは、彼等が命の切り売りをしていたということである。
 雲龍三門は広州一の武門として、朝廷に信頼を置かれていた。
 嘉靖三年(1524)、広東・新寧県の蔡猛三(チョイ メンサム)の反乱では、雲龍派の活躍があった。しかし、嘉靖十三年(1534)、もと東門の師範・陸夏天(ロッ ハーティン)が宗教組織・一翼党と謀って広州府を征服しようとしたかどで、朝廷の討伐を蒙ったのである。この事件のとき、輝鴻は十二歳。生まれ故郷の粛州を離れて四川の成都にいたが、噂は耳にした記憶がある。
 「満更どこかの武林のでっちあげでも無かったわ。陸夏天が利殖を好まない父を疎んじていたのは、幼い私でも判っていた。彼は実際一翼党と通じていて度々農民反乱の示唆をしていた。一翼党は商人を抱き込んでいたから、金回りが良かったのよ」
「仲間の差し金で発生した乱を取り治める。うまく筋書き通りに動かされていたという訳か」
「父は其処まで仁義を欠く人間の存在を知らなかったから。でも、もっと汚いのは朝廷の遣り方ね」
 謀反の疑惑が発覚した時、朝廷は荘主・鄭家勇に陸と直接掛け合うことを命じた。早い話が、我が手で握り潰せと言ったのである。官軍の介入は一切無かった。鄭家勇は、自らの手で一翼党もろとも陸夏天を討った。
「朝廷の下さった言葉はこうよ。『門閥内の闘争で世相を徒に乱した。依って雲龍派は以後閉門を申し渡す』と。父はこの時の疵が元で床に就き、間も無く亡くなったわ。今もって朝廷の人間を見ると反吐が出る」
 何聲は、苦々しく言い捨てた。美しい顔(かんばせ)の翳りと、勝気な性格が相反していた。

(4)に続く
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