第参章 女侠・鄭何聲
(2)
勝利を得たと思った瞬間、輝鴻は腕に激痛を覚えた。そのうえ、右の頬を平手打ちされた。
小気味良い音の後で、蝶小小はきっ、と輝鴻を睨み付けた。頬が少し紅潮していた。
「そんな術で私を誑かそうなんて、如何にも女たらしなら考えそうだこと」
蝶小小は、輝鴻を離れ右手を上げた。握り締められた掌中の飛刀は、輝鴻の血で赤く染まっていた。
「成る程、『不留魂香』の術が効かぬとはな」
輝鴻は耳慣れない術目を言った。『不留魂香』とは、文字通り「魂を止めぬ香り」という。胡人である輝鴻は、己の甘い体臭を自在に操って、女を誑し込む事が出来た。言うなれば、蛾や蝶の雄が見えざる匂わざる誘引の香を発散して、雌を引き寄せるようなものだ。修行によって己のフェロモンを自由に出す術を、輝鴻は体得していたのだ。
「…只の武術に長けただけの好き者とは思えないわ。何の目的で此処へ来たの?」
逆に蝶小小は、輝鴻を詰問した。輝鴻は、にやりとやに下がった笑いを浮かべた。
「いや、失礼。私はこれで引き揚げるとしよう。素人のお嬢様に手を出すのは幾ら私でも危険過ぎる」
言うや、輝鴻は帷を跳ねあげて出て行こうとした。
「待ちなさい」
蝶小小は声を低くして言った。輝鴻が振り返ると、緊迫した美しい女の顔が目の前にあった。湯気が桶から立ち昇って、沈香の芳しい香りを燻らせていた。
「私の名を訊いて帰るのではなかったの?」
「そうだったか」
と、輝鴻は頷いた。
「鄭何聲(チェン ホーシン)。それが私の名前よ」
「鄭…。雲龍三門の鄭か。てことは、鄭荘主の御息女か」
「そう。父は鄭家勇(チェン ガーヨン)」
何聲は、力強くきっぱりと答えた。雲龍三門といえば広州武林での第一派だった門閥である。それも十余年前に閉門を余儀なくされてしまったのではあるが、武術界では知らぬ者はいない旧い家であった。
「じゃあ、キミが…」
何聲は鶴のように長い首を振った。
「いえ。私は荘主を継ぐ者ではないわ。それは今は言えないけれども」
何聲は紅い唇を引き結んで言った。
「貴方には先刻から随分と迷惑を蒙ったわ。埋め合わせをして頂くわよ」
画舫(がぼう)とは遊宴用の屋形船のことである。水墨画の南画に描かれるような、枯淡な趣とは異なっていて、専らこれは妓女とお客の楽しむ小舟であった。銭塘江にも、貿易船の他にこうしてしょっちゅう浮かんでいる。管弦の音色と嬌声が聞こえてくるので、直ぐにそれと判る。
商人たちは気の置けない妓女達を乗せて舟の中で商談する。利用者にとっては格好の密談場所となった。
画舫の間を滑るようにして小船が一艘進んで行く。こちらは屋根のない客舟である。船頭は白髪の煤けた老人で、客は男が二人対座していた。いや、一人は正確に言えば男装の若い女だった。
笠の下から目前に視線を向けたのは、鄭何聲の方が先だった。一呼吸遅れてから高輝鴻が、何聲の顔を見た。
「琵琶を弾いて」
輝鴻は言うとおりにした。長いしなやかな指が十弦の糸を轢いていった。物心着いた時から肌身離さず弾いていた古い楽器である。粛州の商人だった祖父の持ち物であり、今となっては形見の品だった。
「埋め合わせとは何だ?」
と、輝鴻が訊ねた時、何聲は言った。
「温国亮の命を頂戴する手伝いをして貰うわ」
「温国亮ねぇ」
「その為に妓女に身を窶して奴に近付いたのよ。貴方が割り込んで来てしまって、大幅に段取りが狂ってしまったわ」
何聲はおかんむりだった。
「キミは倭寇の手助けをしてるのか?あらかた決済の縺れから、刺客を雇って温を殺そうって事になったのだろうが」
「ご明察の通りだわ。でも、私は金で雇われているだけ。彼等海賊の主義主張には関わっていない」
金の為か、と輝鴻は呟いた。輝鴻自身も似たり寄ったりの境遇には違いなかった。
(3)に続く
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