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第参章  女侠・鄭何

(1)

 湯気が立ちこめていた。その白煙とともに沈香に似たかぐわしい香りが漂っていた。香油である。
羅衣を一枚だけ膝に掛けた女が湯浴みをしていた。透けるような白い肌膚は、玉(ぎょく)のように滑らか、解かれた長い黒髪は濡れ羽色をしていた。蝶小小だった。
 髪を梳りながら、女は先刻の事を訝っていた。
 蝶小小は、眉根を寄せた。湯桶の中に浸された羅衣が揺れていた。そうして立ち上がると、傍らの衣を素早く掴み、糸を引き抜いた。みるみる解けた刺繍の絹糸がぴんと張り、浴室の帷を貫いて窓に達した。
 一瞬の事であったが、賊は身をかわしたようである。
「其処にいるのは判っているわ。出て来なさいよ」
 すると、帷の蔭から柔らかな身のこなしで、男が姿を現した。
「やっぱり貴方ね。懲りないヤツ!」
 蝶小小が言うと、高輝鴻は音も無く入ってきて、女の姿から目を逸らした。前は衣で隠していたが、白い肩やすんなりと伸びた腕や脚が露わになっていたからだ。ふと視線を合わせると、蝶小小は燃える様な鋭い眼差しで、輝鴻を見据えていた。
「何か御用かしら?」
「忘れ物だ」
 輝鴻は、沈香の匂いが微かに残る頭巾を差し出した。蝶小小はひったくるようにして、それを奪い取った。
「覗き見なんてしないで、堂々と渡しに来なさいよね」
「キミが本当に男じゃないのかどうか、と思ってね」
 輝鴻の口許に笑みが浮かんだ。皮肉めいた笑い、と蝶小小は解釈したようである。
「そんなに確かめたけりゃ、御覧なさいよ」
 蝶小小は衣を輝鴻に投げ付けた。衣は頭に被さったが、一瞬彼女の一糸纏わぬ白い素肌が眼に焼き付いた。先細りの長い腕と、水蜜桃のような胸の双丘とくびれたしなやかな腰。
 対面する男の頭には自分の着衣が被さって何も見えてないことは分かっていながら、蝶小小は全身が辱めを受けたようにカッと熱くなるのを覚えた。羞恥心からではない。男の態度の冷静さに、まるで自分が小馬鹿にされているのかと思えたからである。
 輝鴻は漸く頭の物を取って、静かに蝶小小に返した。
「こんな処で何やってるんだ?」
 輝鴻は一歩前へ出た。蝶小小は着物を羽織って、前を合わせた。
「妓女に決まってるでしょう」
「ベツ子門で会った時は、そうは見えなかったが」
「貴方には関係の無いことよ」
 蝶小小は、冷ややかに言った。右手は黒髪を束ねている。輝鴻はその仕草をじっと見詰めていた。再び視線が合うと、蝶小小は彼を睨め付けた。
 この男は、漢人ではない。髪は赤いが、砂漠で商売している大食(タージ)のような浅黒い肌ではない。背が高い。
 胡人というが、それは民族の正式名称ではなく、総称である。漢人から見て西方の民族、イスラム人、トルコ人、時にはインド人を指した。現在の新疆ウイグル自治区や青海省、甘粛省などを旅すると良く分かるのだが、タジーク族やウイグル族といった人々は漢民族と違って彫の深い顔立ちをしている。こうした特徴を持ち、習俗の異なる西方民族を胡人と読んだ。従って、胡人と一口に言っても様々である。
 高輝鴻の場合は、雑胡という。漢人以外の胡人同士の混血児をそう呼ぶ。少数民族側から言わせると、蔑称もいいところだが他に呼称がないので、此処では敢えてそう書かせて頂くことにする。
 輝鴻は雑胡も雑胡で、多数の民族の血が混ざり合った結果、それらしい容貌になった。
 基本的には突厥人であるが、中にはペルシア人、或いは白ロシア人の血も混じっていたのである。
「兎に角、お礼だけは言うわ。壁を拾ってくれて有難う。あれは父の形見の品だったの」
 ほう、と輝鴻は唸った。何かピンと来るものがあったからである。
「お父上はさぞ高名な武人でいらっしゃったようだな。例えば、貞林門の呂元信(ロイ ユエンサム)とか…」
「何が言いたいの?」
 蝶小小の表情がまた険しくなった。やぶへびだったようである。しかし、輝鴻はこんな事で黙ってしまう男ではない。女嫌いの戴志麟なら話は別だが。
「私はキミの本当の名前が知りたいだけだ。蝶小小ってのもいいがな」
「失礼な。知ってどうするの?」
 蝶小小の声は張り詰めたままである。低くかすれた声が艶かしい、と輝鴻は思った。成る程、男装の麗人に相応しいものだ。輝鴻は、唇に笑みを浮かべると、やにわに女の腕を掴んだ。
「一晩中、こうしてキミの名前を囁いてみたくてな」
 輝鴻に抱き寄せられた上半身を、蝶小小は捩った。抗おうにも、両手首を掴まれていたので、糸を解くことも出来なかった。剣も針も無い。輝鴻は壁と衝立の間に女の身体を押し付けた。
「誰が貴方なんかに。人を呼ぶわよ」
「呼んでも結構。妓女を買ったといえば、話はチョンだ」
 輝鴻は軽く笑って、女の頤を引き寄せた。蝶小小は、顔を背けた。だが、視線を逸らせたところで、嗅覚は逃れられなかった。
 胡人の男は、何とも言えない優しい刺激の体臭を放っている。ありていに言えば、汗の匂いとも言えるが、漢人の男の汗臭さでなく、乾いた香のような良い匂いがした。
 女の肩から力が抜けた。
「まさか」
 と、蝶小小は口腔の中で呟いた。
 殆どこれは、魔術或いは幻術の域に達するだろう。眼で女を誑し込むという術者もいるが、そうではない。目は瞑れば御仕舞いだが、匂いはどうだろう。
 蝶小小は、ぼんやりと眼を半開きにして、輝鴻の胸にしな垂れ掛かった。


(2)に続く
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