第弐章 挙人・潘四郎
(5)
「僕は挙人になったというだけでのぼせ上がっていた。何も考えていなかったんだな」
卓は独りごちた。
ふと誰かにぶつかりそうになって、卓は慌てて前を向いた。
「挙人さまとあろうものが、そんなに浮かない顔してちゃあ、強盗か掏摸(すり)のいいカモだぜ」
高輝鴻である。
「何だ…宴席にいたんじゃなかったんですか、温大爺の」
「誰が好きこのんであんな処に?私は蝶小小が一目振り向いてくれるかどうかを確かめたかっただけだ」
輝鴻の右手は銭の入った袋子を弄んでいた。
「どうしたんですか?その金子(きんす)は」
「温国亮から頂戴した。だが、あぶく銭だ、胸糞悪いから全部ここらで使ってしまおうと思ってな」
どうやら、温公が気前良く笛の余興に渡したものらしかった。
「貴方も温大爺はお好きでないようですね」
ああ、と輝鴻は答えた。
「だが、貰える物は貰っておく。たとえどんな金でもな。でもって、使ってしまうことにしてる。ついでに言っとくが、私は官人も大っ嫌いでな」
「そりゃどうも…」
やはり歯に衣着せぬ物の言い方をする男である、と卓は思った。野鴻のように屈託のない育ち方をしたのだろう。
「そんなに蝶小小に会いたかったのに、見てるだけで良かったんですか?まぁ、僕にはその、男女の事はよく判りませんけど」
「判らないなら言うな。蝶小小とは一度会っている。杭州へ来る前にベツ子門(べっしもん)でな」
ベツ子門というと銭塘江の河口の街である。
「この間倭寇の来襲があったのを知っているだろう?その時にだ。あの時は素顔だったが、美しかった」
「向こうは覚えていないようですが」
「だから、さっきそれを確かめに行ったんだ。ま、忘れるわけないがな。こんな稀代の美男子を」
「そうでしょう、そうでしょう。…失礼ですが、貴方の生業は?」
輝鴻は袋を懐に仕舞った。整った顔立ちに微笑が浮かんでいる。
「剣客だ」
《両風侠》といえば、燕京(今の北京)辺りでは知られた剣客である。尤も、卓は武門にはまるで興味が無かったので初めて聞く名前だった。
「私は、《白風鴻》で、相棒で弟弟子の戴志麟は、《青風麟》と呼ばれている。私の着ている物が白いからだろう」
弟子というからには何処かの武林に属していたのだろうが、何ゆえ剣客商売などやっているのかは、卓も訊かなかった。大体、高輝鴻という名前も通り名であって、本名とは思えない。どうもこの男は謎めいている。胡人は商人か武人だ、という観念では理解し難い部類だった。
「杭州では何の用で?」
「仕事だな。私の嫌いな官人のお呼びでね。金の為だから仕方ない」
途端に、卓の顔色が変わった。
「貴方も結局は金子に踊らされてるんじゃないか!」
輝鴻は反論しなかった。しかし、人を食ったような表情で若い挙人の顔をしげしげと見詰めた。
「別に、私は金自体には罪は無いと思ってるからな。要は使い方と持つ人間の心次第なんじゃないの?死んでまで子孫に残そうなんて思わんしな。あんた達は名誉の方が好きなんだろ?」
不知道(わからないよ)、と卓は答えた。
「僕は只、従兄さん達と同じように官吏になる為に勉強してきただけだ」
輝鴻は前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。青味がかった切れ長の眸が闇色を吸い込んでいるように見えた。
「暗いな…いや、世間知らずというのかな、童貞くん。女遊びの一つでもすれば世の中面白い事もあるもんだな、と思えるもにな。さ、私に任せたまえ。いつまでもうじうじしてんじゃないよ!」
「うじうじって言われてもぉ」
輝鴻は卓の腕を掴むと、やおら身体を担ぎ上げた。
「なっ、何をするんですか。うわぁ!」
卓の身体はすぐ向かいの妓楼の門に叩き付けられた。手荒な遣り方だが、その門は柔らかい女体だった。女達はきゃあと叫んでなよなよと倒れた。幸いにして、卓にも妓女達にも怪我は無い。
輝鴻は、驚き呆れる女達に向かって、銀子の入った袋を投げ付けた。
「これで、その挙人さまを充分に歓待してやってくれ」
妓女達が小躍りしたのは、言うまでもない。
第参章(1)に続く
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