第弐章 挙人・潘四郎
(4)
杭州の色街は、これからが盛りという夜の時分である。
卓は、ぼんやりと物思いに耽りながら歩いた。
今時分、叔父の屋敷に戻るのも如何、と思い、卓は悩んでしまった。
「いけない。この連珠何か知られたかな・・・」
と、懐に手を突っ込み、辺りを見回して恐る恐る覗き込む。それはうっすらと手の中で輝いて見えた。
思えば、八月の頃だ。今から二月ばかり前の事になる。卓は不思議な出来事を思い出した。
茹だる様な暑気にやられていた。新城から杭州までの道程は楽では無かった。駕籠に乗る程贅沢は出来ない科挙子の身分だったので、卓はとぼとぼと旅路を行く。後三十里程で、杭州府へ入るというところだった。
道端に突っ伏している老人がいた。
「あ。何かやだな。いやな予感だ。助けなきゃいけないよな、でも」
卓は不意に老人の姿を認めるや、そう思った。自分も疲労困憊している上、腕力には自信が無い。老人を助け起こすべきかどうか、暫し考えあぐねた。だが、いずれ科挙に合格した暁には、みすぼらしい老人を見捨てて行った事が露見でもしたら、忽ち風評に乗るだろう。
そんな損得勘定の上、卓は老人の萎びた身体を抱え起こした。
老人は、ぼさぼさの蓬髪で、着物の綻びも酷く、全身に蚤が集っていた。そればかりではない。老人の顔は、奇怪に皺ばんでいた。まるで酸梅湯に入れる梅干しのような顔色で、のっぺりとした平面的な顔だった。水棲の妖物を思わせる容貌に、またしても卓は吃驚したのだった。
思わず卓は、老人を抱えた手を離し掛けたものだったが、其処はやはり科挙の事を考えて、堪える気持ちがやや勝っていた。
老人の口元に竹筒の水筒をあてがい、僅かばかりの水を含ませてやると、やがて目を開いた。更に水を飲ませると、今度は手を開いて卓を指差した。
「う。うううぐぐ」
「如何した、御老人」
卓は流石に老人の形相を見て、慌てた。目玉が飛び出して、喉を掻き毟っている。卓は夢中で老人の背中を擦り、叩いて喉につっかえているだろう異物を嘔吐させようとした。
ややあって、老人は緑色の液体と共に何かを吐き出した。
「…かたじけない。書生よ、何処の何方か存じないが、生き返った」
老人は、吐くだけ吐くと、直ぐに元気に起き上がった。
さっきまで死人と思しき様相だったのが、まるで新たな精気を得たかのような生き生きとした顔付きになっていった。だが、奇怪な容貌はそのまま、むしろ先程まで乾いていた皮膚に脂っぽいぬめりが現れ、不気味さを増したようにも思われた。
「まったく、最近はのう。うかうか昼寝も出来ない御時世での。わしが大欠伸したら、その拍子に何かが喉に入り込んだのじゃよ」
「それで苦しんでおられたのか」
「そうとも。苦しいの何のって。飲み下そうとしても、長くてつっかえるわ、吐き出そうとしても、これまた途中でつっかえる。ほとほと困ってのう。飯も喉を通らぬので、わしはだんだん弱って来た。これは医者に診て貰う以外に処置無い事と思って、出て来たのじゃが…」
老人は、頭を掻いた。
「世間の真夏が斯様に暑いものとは、思いも寄らなんだ」
「ご尤もです。私でも、まいっているのです。御老人にはさぞかし厳しいでしょうなぁ」
卓は同情して言った。老人は、すくと立ち上がると、吐き出した物を卓に差し出した。
「ほれ。これが元凶じゃ。こんなものは見たくないでの、お前さんにやるよ」
老人は、そう言い残して卓に深々と頭を下げ、ひょこひょこと徒歩で去って行った。
それが、今懐から取り出した連珠である。
連珠は、五個の珠から成り、それは木・火・土・金・水の五行を示す淡い色彩を持つ美麗な石で出来ていた。天竺か西方の突厥(トルコ)から齎された物ではなかろうかと、卓は思った。老人の喉から出て来たというのは些か尾篭だが、珠は美しく輝いていた。時には、それは透けて見え、景色を映し出したかと思うと、或る時には輝きは曇り、懐を重くさせる不思議な連珠であった。
卓は、それを決して他人には見せなかった。石匠や古物商に鑑定して貰うという気も起きなかった。何となれば、それは不思議な縁を以って自分に与えられた物のように思えたからである。
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