第弐章 挙人・潘四郎
(3)
妓楼の二階は、ほぼ温国亮の貸切になっているらしかった。宴席の賑やかな声が洩れ聞こえてくる。女将は廊下の突き当たりまで三人―赤毛も男と去縛、卓を順に案内すると、嫣然(にっこり)と笑って扉を差した。
「この部屋から御覧下さい。後は御自由に。但し、くれぐれも温公に失礼の無いようにお願いしますよ」
判ってますよ、と胡人の男は答えた。案内された小部屋は空室となっていて、妓女達が出入りする場所になっているのだろう。胡人の男は、慣れた手付きで障子紙に穴を開けた。
あのう、と去縛が恐る恐る言った。
「本当に、我々も御一緒してよろしいんでしょうか?」
口調がまるで上官に対する物言いになっている。卓には、その様子が可笑しかった。
「ああ。三十両払ったが、一人で見るのも三人で見るのも目で味わうのは支障ないからな」
惜しげも無い態度が奇妙に爽やかである。これだけの美男子で、只ならぬ事を言っても嫌味がない男は珍しい、と卓は思った。「此亦才質也(此れも亦た才質なりや)」と、卓は後に述べている。一種の才能とでもいうのだろうか。
「私、杭州の生まれで潘去縛と申す者ですが、時に貴方様の芳名は?」
男は碧眼を二人に向けた。長い睫毛を瞬いて、男は笑った。白い歯が覗いて美しい。
「河西は粛州の出身で、高輝鴻だ」
なるほど、名は体、という。卓は思った。高輝鴻は既に宴席の様子を伺っているようだった。卓もどきどきしながら、指で紙に穴を開け、覗いて見た。
五間ほどの広間に、八、九人の商人達が取り巻き、妓女が六人ほどいるが、卓にも蝶小小らしき女が何れであるか、直ちに判った。
―明眸皓歯、若恥西施。と、かなり大仰な表現であるが、卓の感想はこういったところである。かの古の美女、西施も恥じ入る麗女とは、如何なる女なのだろう。昔より中国では女は南方、と言われ特に蘇州の女が佳いとされる。それも、北方には色街が殆ど無い、という原因もあろう。清代では官吏が娼妓と遊ぶ事は禁止されており、破った者には厳重な処罰があったという。勿論、この明代にはそのような事は無かったのだが、やはり女は南だったのである。南方訛りというのは、何ともいえず多くの男性の心を擽ったらしい。
恐らくは、蝶小小も広州あたりの出身ではなかろうか、と卓は判断した。妓楼に詳しくなくとも、その程度の知識はあった。
ぱっちりと大きな二重の目に黒い潤んだ瞳。蛾眉と呼ばれるくっきり優雅な眉。すっきりと通った鼻筋に小振りの赤い口唇は、南方の美女の証である。右目尻に泣きぼくろが見えた。
「間違いない、あの女」
高輝鴻が呟いた。卓も去縛も蝶小小に見蕩れていたが、次の瞬間はた、となった。宴席で蝶小小が歌い始めると、輝鴻はやにわに小部屋の戸を開け放ったのである。
「ななな、何をなさるんで高公子(コウさん)!」
去縛は慌てて止めようとした。
しかし、輝鴻は落ち着き払った態度でにっこりと微笑む。無論、温国亮をはじめとする一同皆、ぎょっと目を剥いていた。唯一、その中で蝶小小だけが依然歌い続けていた。が、ほんの瞬間、輝鴻に目を遣った。視線が対峙したところで、輝鴻は脇から胡笛を取り出し、蝶小小の歌に併せて奏でた。
唖然となっていた人々は、緊張の糸が解けたように、再び酒を飲み出した。
「粋な計らいだな、ああ?」
温国亮は呵呵大笑している。去縛は胸を撫で下ろし、急いで踊りの真似事をはじめた。
「お前も踊れ」
と、卓の頭をどつく。
「僕は踊りなんて知りませんよぉ」
「何でこんな事…」
混蛋(バカたれ)、と去縛は卓の足を踏んづけた。
「温船公といえば、知る人ぞ知る大商人だ。お上も一目置いてる存在だぞ。温公に睨まれたひにゃ、杭州はおろか華南では商売は出来んというくらいにな」
「官人(やくにん)の従兄さんは関係ないだろう?」
「だからお前は世間知らずだってんだ。俺らが郷試を受けた時の宴会を主催したのも温公だったし、親父も少なからず袖の下を頂戴してんだよ。いわば、その金で俺も官人になれたってもんさ」
卓は改めて、温国亮の顔を見た。それで納得が行った。従兄が幇間(たいこもち)みたいな真似をするのも、無理からぬ事である。何しろ、科挙の費用は一家の財産を食い潰す程たいへんだし、官人になっても薄給で金のためにあくせくせねばならないのであった。そう思うと、何だか自分が馬鹿らしく思えて来る。
卓はふと、我に返った。
そうして、ふらふらと歩き出した。茫然としたまま、卓は入り口の戸にぶつかった。すてんと転んだが、それも僅かな時間の事であって、卓は何事も無かったかのように直ぐに立ち上がった。
懐から、何かが零れたようだったが、それすらも宴席の人間には何だったか判らない程に素早く仕舞い込んだ。
「おい!卓、何処へ行くんだ。卓!」
最早、去縛の声も聞かず、卓はとぼとぼと房間(へや)を出て行った。輝鴻はそんなことなど、どうでもよい。ただ蝶小小を見詰めながら、流麗な笛の音だけを奏で続けていた。
しかし、蝶小小は一度きりしか、輝鴻の方を見なかった。
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