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第弐章  挙人・潘四郎

(2)

 さて、杭州(コンヂャウ)といえば浙江地方の中心地であり、古来戦国時代から越と呼ばれてきた地方である。北宋が金(女真)の侵攻の為に首都・ベン京(現・開封市)を陥落され、再興した南宋の首都においたのが、この杭州であった。以来、約百五十年の間、国都であり、当時は臨安と呼ばれた。
 その間経済的にも成長を遂げたうえ、南宋滅亡後も戦火を受ける事が無く、依然として繁栄した。明代になっても政治の中心地ではなくなったが、経済・文化面では重要の地であった。
 栄える都市には有能な人材が多く集まり、物流があり、活気に溢れている。
 潘卓も、杭州の街の賑やかさに漸く慣れてきたところであったが、それでもこんな所へ来るのは初めてであった。
 こんな所とは、妓楼である。
「やっ。《嫦娥楼》とは。従兄さん、僕は女遊びなど・・・」
「つべこべ言うな、入った入った」
 出て来たのは、妙齢の花魁ばかりで、卓が見たことも無いような艶やかな薄物の衣装を身に纏い、白粉の匂いを馥郁を漂わせていた。
「いらっしゃい潘公子(さん)。そちらの旦那はぁ?」
 しなを作りながら、一人の花魁が卓に向かって声を掛けた。卓は覚えずどぎまぎした。
「俺の従弟だ。卓という。この間挙人になったばかりで、浮世のことは何ぁんにも知らないトウヘンボクだから、お手柔らかにな」
「やぁだわ潘さまったらぁ」
 卓は間近で匂う白粉や紅の匂いに頭がくらくらするばかりで、ぼうっとしている。去縛は、妓楼の中を覗き込みながら、首を傾げた。
「先日新しい妓女が入ったと聞いたんだがな。えらく評判だそうだが、今日はいないのかい?」
「蝶小小(ティ シウシウ)のことですか?ええ、そりゃもう。あの娘は来てからまだ十日ばかりなんですがね。出ずっぱりで。御蔭で大繁盛ですよ、うちは」
 年増の妓女が言った。風格から言って、ここの女将だろう。この賑わいからして、女将の言うことは嘘ではないらしい。
 そして、蝶小小とかいう新入りの妓女は、御指名に預かっているのだろう。
 ならこれ幸い、従兄のお目当てもいないことだし、帰るのが得策、と卓はこっそりと去縛の袖を引いた。
「従兄さん・・・」
 
 その時、入口に新客の到来があった。卓も去縛も振り返った。
 客は年の頃二十代の前半と思しき颯爽とした美丈夫であった。南方では、滅多に無い程のすらりとした身長で、変った風貌をしている。
 高鼻、猫晴、紅髪にして白皙無髭。
 所謂、胡人とはこういう男のことか、と卓は思った。明代、杭州を中心とする浙江周辺では、ポルトガル人やオランダ人も出入りしていた筈であるから、外国人は珍しくなかった。しかし、西方の外国人を見る機会は北方ほどではなかった。卓も初めて見たのである。
「私もその蝶小小とやらに、一目会いたくてね」
 胡人の男は、唄うようにいった。北方の訛りがある言葉遣いだった。そこらにいた妓女たちが、声を上げた。男の声が素晴らしく通っていた上に、粋な物腰だったからである。ただの美男子というだけでは、都市の女は靡くものではない。
「ちぇっ、好敵手かよ」
 去縛は舌打ちした。風采という点では、従弟と二人並んでも足元に及ばないことは目に見えていた。女将は言った。
「生憎ですけどね、旦那。蝶小小は今温国亮(ワン コクリョン)大爺の御宴席でしてね。他の娘なら、いいの幾らもいますけどね」
 胡人の若い男はふん、と鼻で笑った。
「温国亮?新安商人・温船公か。噂には聞いたが、連日杭州で派手に遊んでおられるらしいな。銭塘江の数多ある画舫の中で三分の一が温船公のお召しだとか・・・。最近の商人はえらく景気が宜しい様で」
「滅多なことを仰いますねぇ」
 女将は肩を竦めた。
「温船公だとさ、卓」
「何者なんだ?従兄さん」
「あの男の言った通りさ」
 新安商人といえば、日本で言う大阪商人みたいなものである。もともと安徽省あたりの商人を指したが、銭塘江の上流にあたる土地で新安とも呼ばれた。商人そのものの地位が向上するに随って、新安の商人達も財力をつけ、次第に朝廷と結び付くようになってきたのである。世事に疎い卓には、このことが何を意味するのかよく判らなかった。
 胡人の男は懐から袋子を取り出した。女将に渡すと、こう言った。
「温国亮が幾ら出したか知らないが、それだけあれば一目衝立の隙間から見せてくれてもかまわないだろう?」
 女将は魂消た。袋にはぎっしりと、銀子が詰まっていた。三十両はくだらないだろう。思わず、去縛も卓も目を剥いた。いいのは男振りだけではなかったのである。
 どうだろう、この金の使いっぷり。涼しい顔して言うところも、何もかも此方は負けている。
 見た所役人でも商人でもなさそうだが。
 男の風体は、編み笠に漢人は普段見に付けない白い立ち襟の胡服、それに袷という出で立ちで、背なに長大な弓を負っていた。赤い髪は結い上げたまま、長く腰まで垂らしているが、だらしなくは見えない。むしろ男の長身を際立たせていた。何処か血腥い雰囲気も無くは無いのだが。
「何者なんだ?この男」
 二人は従兄弟同士顔を見合わせた。女将は頗る笑顔で、胡人の男を階上へと案内した。
 商売にさえなれば、後事のことなどお構いなし、というやつである。男は振り返った。
「ああ、そこの御両人も宜しかったら一緒にどうぞ」
 去縛はうわ、と喜んで急ぎ足で男の後を付いて行った。呆れた従兄である。
「どうしようもないなぁ。ま、待ってよ従兄さん!」
 渋々、卓は去縛の後を追った。この時、卓自身は先に大変な椿事に巻き込まれる、などという事は思いも寄らなかったのである。


(3)に続く
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