第拾章 青白龍王珠
(5)
さて。久しくお目見えしてなかった挙人・潘卓の登場である。
久しくといっても、ほんの数日間の事であるが、何しろこの数日には潘卓の知らないところで様々の展開があった。そして、この新挙人は両風侠の目まぐるしさとは懸け離れていた。
今、会試に向けての勉強に励んでいるところであった。
「海上無甘棠……」
うーむ、と筆を擱いて卓は唸った。硯は叔父から祝いに貰った品で、南宋時代の物である。日月を模った黒石の硯には、芳しい墨の香りが満ちていた。
「甘棠よりも柳絮の方がいいかな。色彩的には甘棠の方が艶麗だが、柳絮のが爽やかで春らしく清澄な美かも」
甘棠とは花海棠のことで、鮮やかな紅色の春の花である。柳絮は柳の白い実が綿毛のように舞う様で、春の雪のように見える。何れも春の美しい情景を象徴する風物であることは間違いない。
「しかし、秋の今時分に春のことをうたっても詮無いなぁ」
卓は筆を投げ出してしまった。
どうもこのところの疲れの所為か、作詩が巧くいかない。従兄の去縛はもう赴任先へ旅立ってしまった。酒宴が無いのは下戸同然の卓には有り難いが、少々退屈を持て余しているというのが正直なところである。
「高公子も見掛けないし、そういえば蝶小小はどうなったんだろうか?」
他人の詮索などせずに自分の事だけしていればいいのだが、暇になると人間というのは下らぬ事を考えたがる。「小人閑居して不善をなす」とはよく言ったものだが。
「好(よし)!」
と、手を打って卓は筆を取った。
やおら紙に書き付けたのは「蝶小小歌」という題字であった。
まさか唐代の奇才・李賀の「蘇小小歌」の擬歌でもあるまいが、何やら嬉し気である。
「妾吟風雨晩、郎弾車塵夕……」
妾(わたし)は吟(うた)う風雨の晩に、郎(あなた)は弾く車塵の舞う夕べに、という歌い出しである。
その時、小奴がやって来て卓に声を掛けた。
「四少爺(スーシャオイエ=四番目の旦那様)、お客様ですよ」
「誰何だい?」
「戴公子と仰る方ですが」
「初めて聞くなぁ。知らないよ!」
と再び筆を下ろした時、房子の扉が開いた。入って来たのは、温国亮の所で見掛けた若者だった。
「誰が知らないですって?」
「ああ驚いた!びっくりさせないで下さいよ。貴方、高公子の……」
「相棒で弟弟子の戴志麟です」
志麟はそう言ってにっこりと白い歯を見せた。
「実は貴方にお頼みしたい事がありまして」
「な、何ですか。俄かにそんな」
潘卓は身構えた。厄介事の種が袍着て歩いているような高輝鴻の相棒の頼みなんてどうせろくな事ではない、と卓はこういう時だけは血の巡りが素早くなる。
「何も切った張ったをやれと言うんじゃありませんよ」
実はかくかくしかじかの理由でもって助けて欲しいのだ、と志麟は正直に申し出た。
「その舜永という少年を助け出したいっていうわけですね?まったくもって高公子がどじを踏まなければこういう事態にもならなかったんでしょうけど。……文句言っても始まらないか」
卓は溜め息を吐いた。志麟の顔は至って生真面目に引き締められていた。
「それで、私に何をやれというんですか?」
「だからそれを貴方に考えて欲しいんですっ!お願いだから挙人様とやらの智慧を貸して下さいよ!」
志麟は卓の両肩を揺さぶった。
「はぁ?な、何なんですか、もう」
卓は口を半開きにしたまま、志麟の真摯な顔を見詰め返した。挙人様と呼ばれて微妙に嬉しいような面映い気持ちだが、男にこうして迫られるのは何とも言えない気分だ。
しかし、高公子に貸しを作るいい機会かもしれん、とも思うのだった。
第拾壱章(1)に続く
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