第拾章 青白龍王珠
(1)
霍希錦の私邸は、俄かに慌しい様相となった。それは他所者から見ると、常時こうなのだろうかという程度の差異としてか表面には現れなかったが、何しろ邸内の者はうっかり口外してはならぬ事が生じたので、落ち着かないのである。もし一言でも発すれば、命は危ういのだから。
霍希錦の掌中に二つの玉珠が載せられていた。
「これが龍王の珠というものか」
「然様で」
と、温国亮は微笑を浮かべた。
青珠の方は所謂海のような青ではなく、翡翠色に近い。白珠の方はどちらかというと淡い乳白色である。東洋人、とりわけ中国人は不透明な色彩の石を好む傾向がある。霍希錦の握っている二つの珠は、あたかも青磁と白磁のようだった。
「美しい珠玉だが」
霍希錦はそう独りごちながら、二つの珠を弄んだ。双方共に龍の文様が彫刻してある。非常に繊細な細工だが、珠玉の直径はおよそ二寸(約6センチ)ばかりだ。
「これが龍王の証徴(あかし)というならば、瑞兆だ」
麒麟や鳳凰のように龍という霊獣が世に現れる時、何かが起きる前兆であるという。それは果たして吉兆か凶兆かは判らない。しかし、霍希錦は敢えて吉と見た。それは、この男とその権謀にかかわる人間達がこれから行おうとしている所繰の見通しに他ならなかった。
「あの子供は生まれた時からこの珠を持っていたという。ならば、龍王の子だ。まこと龍王の子とはな?」
霍希錦の顔が苦笑に歪んだ。
温国亮は沈黙を守ったまま、提督の手中の二珠を見詰めていた。
龍という存在は漢人にとって親しい存在である。元はそのルーツを南方少数民族のトーテムであると見る説も有力だが、起源はともかく龍蛇は先史時代から中国大陸で広く信仰を集めていた存在であるのだ。
さて龍王というと、仏典に現れる龍のことを指す。
仏教の考えでは、仏とその教義を妖魔から守るために戦う「天龍八部衆」という戦士がいることになっている。それぞれ天(帝釈天、梵天など)、龍(王)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩ゴ羅迦という守護神から成り、神通力を駆使して戦うのだが、彼等は真理を得て解脱することが出来ないため、それが可能な人間よりも劣っているとされる。
この「天龍八部衆」は印度で成立した仏教に吸収されたが、とくにインド神話のナーガという蛇神が龍王という字を充当されたために、中国本来のドラゴンと混じり合って「龍王」という新たな信仰対象が生まれたのである。
「龍王廟」というのは、雨乞いの祭礼が行われる場所であるし、同時に洪水をもたらす龍王をなだめるところでもある。
その龍王が持っているものに「如意宝珠」というのがある。
読んで字の如く「意の如し」とは、何でも望みを叶えてくれる宝珠のことである。龍王の神通力の総てがその小さな珠に保持されているといい、これを手に入れた者は財宝、衣食ありとあらゆる願望を達成出来るというのだ。
「この珠玉が貴方様の如意宝珠となりますかな」
温国亮は、目を細めた。霍希錦は唇を歪めて笑った。
「なるとも―そうなったならば」
言い掛けて、霍希錦は口を噤んだ。先の言葉は口に出さずとも温国亮には承知だ。この計画も総て霍希錦を主に温と馬と三者で進めてきた事である。無論、大っぴらに出来る類のものではない。
明朝打倒という大胆不敵な計画なのであるから。
計略が整え始められてからおよそ十年になる。短くも無い年月だ。霍希錦は位階を着々と進めながら、準備に勤しんできた。
「経済基盤を弱体化させ、国力を萎縮させておく」
このことが先決であったが、北虜南倭によって自然と国力は落ちて来ている。問題は宦官の勢力だが、今のところ宰相・厳嵩が一身に皇帝の寵愛を受けているので大した心配はない。要は厳嵩の首を斬ってしまえば妖しい道術に凝りまくっている嘉靖帝など恐るるに足りない、という事だが。
「辰砂はもう取り寄せたので?」
温国亮は猫撫で声で尋ねた。
「この間、倭国の密売人から手に入れたと太監がな」
「えっ。私共が用意しましたものを!」
温の愕きは並みではなかった。
不知(しらんね)、と霍希錦は手を振った。片肘を卓に付き、小奴(少年の奴隷)を呼んで酒を運ばせる。
「その件は太監に任せてあるのだ。私は知らん」
皇帝に献上する丹薬を製造する為の辰砂の事である。
「今一度、何処の商人にございますか?」
「さてな。倭国は倭国らしいがまだ若い新手の者だと聞いた。上等の品を海南の商人の半額以下だと申し出たので買い上げたらしい。おお、はよう酒をこっちに」
酒盃に澄んだ酒が注がれた。
(2)に続く
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