第壱章 倭寇襲来
(3)
見ると、そこには剣を構えた男、ではなく鉄扇を掲げた男が立っていた。身軽な旅装の出で立ちであるが、優美な風情を醸し出していた。
「ははあ」
高輝鴻は片眉を上げた。男は、立烏帽子に顔の下半分を黒い布で覆っていた。だが、黒く濡れた瞳から放たれる鋭い眼光。昨晩両人は、一度同じように視線を合わせていたのだ。
男は黙したまま鉄扇を顔の前に動かし、その隙から素手を覗かせた。
一見何も見えない長く伸びた指の間に、輝鴻と志麟は鈍い光を見た。
ひょう、と風が唸るや、男の指から刃が走った。飛刀である。所謂、一般的な飛刀に比して、非常に薄刃でしかも小さな物だ。だが、切れ味は瞠目に価した。
志麟は、己の黒髪の数本を見事に削いだ飛刀を、壁に見た。
「暗器使いですか」
「璧を持ってるのは相棒だぞ」
輝鴻が叫んだ。
今の状況では、誰がどう贔屓目に見ても壁を実際に手にしているのは、戴志麟その人だった。
「高大哥、やっぱり・・・!」
志麟は輝鴻に食い付こうとして、斬風剣を抜いた。璧から手が離れた。輝鴻はすかさず回り込み、璧を受け取った。
柔らかい身のこなしで、男は飛刀を繰り出す。そうしながら鉄扇が男の指に絡められて、まるで舞姫のように踊る。
凛、と刃を弾く音が響いた。志麟は抜き放った《尚方斬風剣》で飛刀を交わす。
「くぬ・・・」
剣背で弾いた筈の刃が見えない。確かに飛刀は真っ二つに折れたのだが、無事な真刃が、志麟の左腕に刺さっていた。
「『隠刀』も使うという訳ですか」
志麟は素手で飛刀を引き抜いた。鮮血が《斬風剣》の剣身に散る。男は至極冷静な目付きで、志麟を見据えていた。あなどれない相手だ。只の暗器使いではない。刀剣を扱う腕も相当なものと見えた。
一枚と見えた飛刀の裏に隠して放つ『隠刀』の技。もしや鉄扇の動きが『隠刀』に更なる幻覚効果を与えているのでは、と志麟は訝った。
「貴方の相手は輝鴻じゃないんですか?」
志麟が視線を逸らすと、輝鴻は既に楼の上にいた。瓦を踏み拉き、《双飛七朴弓》に切羽の矢をつがえる。
「名を名乗るんだな、貴公。こんな落し物をしておいて、私に拾わせたんだ。私が小悪党ならとっくに昨晩の内に売っぱらってただろうよ。それに、その『隠刀』といい、何処の流派だ?」
輝鴻の問い掛けに、男は覆面の下からくぐもった声で応えた。
「名乗るなら、聞いた人間が先にというのが常識」
成る程、と輝鴻は肩を竦めた。
「私は《順天武林》の高輝鴻。そいつは弟弟子の戴志麟だ」
「ふ・・・」
男は低い声で笑った。
「貴様らが《青風麟》と《白風鴻》という訳か。こんな青二才どもとはな」
この言葉に、志麟は俄に頭に来たらしい。直情径行が悪い癖で、志麟は後先考えずに《斬風剣》をかざし、男の不意を突いて掛かった。
男は心得て志麟の繰り出した剣を交わした。背なで交わしつつ男の左腕が、志麟の胸倉を掴んだ。
慌てた志麟は、よろぼうた。袷が開くのを押さえ様としたが、それが逆に男の胸元を押す形を取ってしまい、志麟はさらに慌てた。
「うわわわわわわ!」
素っ頓狂な声を上げて、志麟は男を突き飛ばした。男は蝶でも舞うように、軽々と跳躍して屋根に上がった。輝鴻の放った一矢が、振り向きざまの男の覆面を風に攫った。
男は同時に、摺り足で輝鴻の懐に飛び込み、素早く壁を抜き取った。
「名を名乗れ・・・」
輝鴻は、男の覆面していた布を牽いた。その拍子に烏帽子を結うていた絢紐が崩れる。
長い絹糸のような黒髪が流れ出した。それに伴い、沈香のような芳しい匂いが辺りに立ち昇った。ほんの一瞬の出来事ではあったが。
振り向いた顔は、男の物ではなかった。稟と輝く双眸と、黒い眉は刷毛で描いたように黒々としているが、尖った頤(おとがい)と夜目にも紅い唇は、妙齢の女のそれである。
輝鴻は、不覚にも我を忘れた。
女を美しい、と思ったからである。それであっさりと璧を渡してしまった。
「確かに返して頂いたわよ、高公子(コウさん)」
女は嫣然と笑って楼から飛び降りると、何処へなく、やって来た時のように静かに去っていった。
「おい」
志麟は地べたに尻餅をついたまま、顔を上げた。輝鴻は半ば茫然と、頷いた。
「・・・見たか?」
「どうしよう!胸触ってしまいましたよ、大哥!」
「是真妄人(バーカ)!」
輝鴻は路上に下りて、女剣客が残して行った立烏帽子を拾った。沈香の匂いが微かに残っている。
「しかし、何者なんです?あの女は」
志麟は顔を顰めた。何しろ、触りたくも無い女。しかも、よりにもよって最も女らしい部分に触ってしまったからである。
志麟の胸は、いまだ早鐘を刻んでいた。頭が上せているのを、兄弟子に気取られたくなかったので、敢えて顔は向けていない。
「知るものか。昨晩は、妓女に絡んでた賊がいたんで助けてやろうとしたんだがな。あの女が来て、あっという間に男三人ほどのしてしまいやがった。璧はその時の落し物だ。親切にも、この私は届けてやろうと思って、客舎を捜して回ってたという経緯だ」
「初めから、そうと言って下さいよ!」
「女だと気付かなかったんでな。男の落し物をわざわざ届けよう、なんて言ったらお前笑うだろう?」
「そりゃ尤もですけどね」
志麟は目を瞬いた。漸く立ち上がり、尻や腕の埃を払い落とす。
「それにしても美しかった。男装の麗人であるからには、何か訳があるのだろう。装えば恐らくは後宮の美女三千人とて己を恥じるに違いない」
輝鴻は烏帽子の絢紐を握り締めて、言った。
「また!貴方の悪い病気が始まった。美女だか何だか知りませんが、狐精や鬼(ゆうれい)だったらどうするんです?気付いた時には腑抜けにされてますって」
「放屁(バカ言え)!暗器使いの鬼が何処にいるって言うんだ。悪いが志麟、お前先に杭州へ行ってくれ。私はあの女剣士を追うぞ」
「何!?」
志麟が唖然としている間に、輝鴻は其処らに繋がれていた馬に飛び乗った。
「それは私の馬です!ちょっと、頭の血ィ抜いて戻って来なさい、この王八蛋(バカ)!」
志麟の声が響いている。罵声までもが馬鹿丁寧だ。だが、輝鴻は聞く耳持たない。馬の尻に鞭打つと、いざさらば、と駆け出した。が、数歩歩んで足踏みする。
「そうそう。お前胸触った感想は?」
「・・・二つでした」
「あ、そ」
輝鴻は首を振った。聞くだけ馬鹿馬鹿しい。と、再び馬の鼻先を北東へ向け、行ってしまった。思い立ったら行動が早いのが、胡人の性癖だ。
だが、志麟の胸はまだ動悸が収まらなかった。女剣士の麗顔に秘められた、あの笑みは何だったのだろう。溢れ出る自信。
志麟は左肩の傷に触れて見た。其処だけが、熱く脈打っていた。
舜永と名乗った少年は、何を言おうとしていたのか。もしかすると、倭寇襲来の事実ではなく、今志麟に起こっている変化の兆しを言い当てたのではなかろうか。
風が、血腥い空気を運んで流れた。
第弐章(1)に続く
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