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第壱章  倭寇襲来

(2)

 街路は凄惨を極めた。志麟は馬を牽きながら歩いた。馬蹄は泥水と血に侵され、袍に泥が撥ね散った。堆積した瓦礫や人馬の屍が黒い小山を築いて見える。
 賊船は去ったが、まだ官軍の兵卒が辺りをうろついている。死体を運搬している模様だったが、不届きな連中が死人の懐から金品を抜き取っているのさえ、黙認している。
 官軍の兵士も同じ事をやっているからだ。必ずしも、銭に汚いのではなく、明国に仕える人間は皆概ね薄給で、それとて仕様のない事だった。
 中国歴代王朝の中で、最も官吏の俸給が安いとされる時代である。
「それにしても、あの孩子の言ったことは、このことだったんですか・・・」
 嘘を吐いているようには思わなかったが、まさか本当のこととも信じ難く、こうして襲われた後の港町を彷徨っているのが、志麟は現(うつつ)とも夢とも知れなかった。
 不意に、琵琶の音が流れてきた。
 南方では聞き慣れぬ、何処か異邦を思わせる洗練された音色である。
「刹那風波流、浮沈塵芥聚、柔柔我髪鬢、啾啾鬼哭聲」
 刹那として風波過ぎり、浮沈して塵芥聚まる。柔柔たり我が髪鬢、啾啾たり鬼(ゆうれい)の哭声。
 こんな歌声が流れてきた。よく通る若い男の声で、如何にも春の宵なら街の女も振り向いただろう。しかし、今は官兵でさえも聴こうとはしなかった。
「輝鴻!」
 志麟は、手綱を引いた。
 歌い手は宿場街の楼の上にいた。志麟の声を聞いて立ちあがると、まるで鳥のように軽々と屋根から飛び降りた。高輝鴻である。
 白い袍衣に黄橙色の上衣で、すらりと長身の姿が志麟の前に現れた。赤味がかった長髪を頭頂で高く結い、腰まで垂らしている。薄暗がりのこの状況でも、彫りの深い顔立ちがはっきりと判った。
「高大哥(タイコウ/あにき)と呼べ。死体が片付くまで上にいるつもりだったんだがな」
「呑気に歌なんか唄って、どういう了見です?」
「死者を哀悼して唄ってたわけさ。この美声を只で聴かせてやるには、ちと惜しいがな」
 しれっとした顔で、輝鴻は言った。相変わらず口数の減らない男、と志麟は兄弟子を忌々しく思った。そもそも兄弟子と言っても、入門は同日で、たまたま輝鴻が二つばかり年上だったというだけの違いだ。そして、大概というもの志麟はこの手の無駄口には聞き飽きていた。
「じゃあ、何で弓を持ってるんですかね。そこらに貴方の・・・大哥の矢を突き立てられた賊が転がってるのは、どういう事だか説明して貰っていいですか?」
 揶揄をたっぷりと込めて、志麟は言った。ふん、と輝鴻は片眉を優美に上げて笑った。
「か弱き婦女子に乱暴狼藉を働こうとした輩の、成れの果てだ」
 またそれですか、と志麟は口をへの字に曲げた。
「貴方の女好きには閉口します。妓楼からよく抜け出せたもんですね、天下の色男」
 と、志麟は酸っぱい唾を地面に吐いた。女、と思うだけで鳥肌が立つ。何か酸っぱいものが込み上げてくる。かといって、別段、男色の趣味もなく、女の為に災難に遭った訳でもない。
 何となく性に合わない、という十九年を過ごしてきた志麟である。
「はは、今更言うな。言っとくが、私は妓楼には行ってないぞ、昨晩は」
 輝鴻は琵琶を担いだ。背なには、長弓が負われていた。
 大人の、それも高身長の輝鴻の背丈をゆうに越す強弓は、弓弦を極端に短く張ったものだ。
 《双飛七朴弓》。
 漢人はこのような弓は使わない。胡人の使う弓の中でもずば抜けて長い。
「これは海賊の仕業か?」
 という輝鴻の言葉に、志麟はむっつりしたまま頷いた。親指を唇に当て、明るくなりかけた湾の方を見詰めている考え事をする時の癖だ。
「倭人か」
 輝鴻は呟いた。辺りを訝しく見渡すと、もう官軍は引き揚げていったらしかった。倒壊した家屋の間を、掠奪に遭った人々が心許なく行き交っている。
 倭寇と言っても、もとはただの武装密貿易商人集団である。貿易の相手は明国の大官や富豪達だった。明国は海禁を国是としており、無論貿易は「入貢」という形式でのみ許可していた。外国から貢物を献上させて、その返礼として明国の物資を下賜するというのが、一応の建前なのだ。
 しかし、実際に貢市の利そのものはぼろい儲けであり、明国の大官や資本家達は、半ば公然と日本商人と交易を行っていた。この交易上のもつれが倭寇の発生の引き金となったのである。
 明国の大官側が代金の支払いを渋ったり、踏み倒そうものなら、日本の商人達は、即座に船を連ねて威を示し、負債の返還を強制要求したのだった。
 銭塘江の倭寇上陸も、この決済のもつれに原因があった。
 つまり、港の住人はいい迷惑を被ったのだ。
「賊の襲来の前、妙な孩子に会いました」
「孩子?」
「大変な事があるから街を出ろって。私にだけ言ったんです」
「寝ぼけてんのか、お前。孩子が倭人の襲撃を予見して親切に忠告して下さったとでも言うのか?それはきっと、お釈迦様のお使いなんだろうなぁ」
 志麟は、ちらと輝鴻の表情を横目で確かめた。人を食ったような顔付きだった。しかし、志麟はこれしきのことで気を悪くしたりはしない。
「だったら志麟、お前こそさっさと逃げりゃいいのに。どのみち杭州に行くんだからな」
「貴方を捜してたんですよ。妓楼街を歩いてたら・・・こういう訳で」
「私は妓楼には行ってないって言ったろ?」
「じゃあ、何処にいたんですか?」
 志麟は思わず輝鴻の胸元まで詰め寄った。成りは中背で、何処か少年の面影を残した端整な面差しだが、澄んだ目に迫力があった。
「聞いてどうするんだよ」
 と、輝鴻は言葉を濁した。その懐から覗いているのが、見慣れぬ璧玉だと気付くや、志麟は声を上げた。
「何です、これ?」
「落し物を拾ったんだ」
「こんな物、普通の人間が落とすわけないでしょう?」
「さぁ」
 はっきりしない輝鴻の懐に手を突っ込み、志麟は無理矢理、璧を取り出した。
 果たしてそれは、片手に載る程の璧であった。璧とは、環状の平たい大玉で、輪の幅が中の穴の直径の倍であることが条件とされる。
「まさか大哥・・・」
 志麟は疑り深い視線を輝鴻に向けた。
「兄弟子を疑う気か?はん」
 輝鴻は志麟の手を払い除けて、胸を反らした。
「この高輝鴻、悪漢は殺めても無辜の人民は殺めず。人妻は盗めども、金品は盗まずが信条。大体、河西じゃ西方からの珍品・貴品を見て育ったんでね、瑠璃だの璧だのと見飽きてんだ、生憎」
 と、言い掛けて輝鴻は矢庭に退いた。
 空を切る音と共に、飛刀が朽ち掛けた壁に突き立った。

(3)に続く
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