第壱章 倭寇襲来
(1)
空が白みかけていた。遥か東の扶桑の水平線から、やがて日が昇るだろう。
戴志麟(ダイ チーロン)は、ぞっとしない心地になった。何故ならば、足の踏み場も無いほどにここらに倒れている無残な屍が白日に曝されるからである。剣客を生業としている志麟にとっては、血河や累々たる屍の山など、ある程度見慣れたものであった。
だが、それにしても昨晩の出来事はまるで現実のものとは思えなかった。
それは、突風のようにこの銭塘江の河口一帯に出現した。
前日から志麟は、《銀柳客桟》という客舎(やど)に兄弟子と二人宿泊していたのだが、昨晩は一人で晩酌をし、夜半過ぎに床に就いた。
妙に胸が騒いだが、虫の知らせでもあるまい。
「あの花公(スケコマシ)は、また午前様ですかね」
志麟はボソリとぼやいて寝台から下りた。花公とは、無論兄弟子の高輝鴻(コウ フェイホン)の事である。
宵の口から妓楼に出掛けたきり、その兄弟子にして相棒の姿は、客舎の何処にも見当らなかった。
客の誰もが寝静まっているようだった。志麟は旅装を崩した姿で、環窓からそっと外の様子を伺った。いやに静かだ。狗(いぬ)の声すら聞こえない。
「気の所為かなぁ」
と思って再び床に入ろうとすると、今度は小便がしたくなった。階下へ下りていくと、中庭に出る。
その時である。誰かが脇をすり抜けようとした。咄嗟に志麟の手が、その襟首を捉えた。
「此処で何やってるんですか?孩子(ぼっちゃん)」
思いがけない力で行く手を阻まれた少年は、はっとなって志麟を見た。志麟の方はまた志麟で、まだ十四、五歳の少年のあどけない顔に驚愕した。少年の白い顔には、鬼気迫るものがあった。
「放してよ。早くこの街から逃げなくちゃ」
「逃げる?窃盗でもやったんですか」
「違うよ、乱暴だなぁ、もう」
少年はきつく眉を顰めた。だが、志麟の見掛けに似合わぬ慇懃な口調と物腰を奇異に感じたのだろう。訝るように大きな瞳を見開いた。
少年の言葉には、南方の訛りが大分残っている。大方、広州の辺りから出て来たのだろう。今は各州府で科挙の郷試の終る時期だが、科挙子にしては若過ぎる。しかし、旅芸人の子とも思えぬ気品が溢れていた。
「放してくれたら教えてあげるよ」
少年の黒い大きな眸が動いた。志麟は何か、只者とは思えない不可思議茫洋とした心地に捉われて、手を放した。
「何だってんだか。私は小用を足したいんです、早く言って下さい」
「だったら捕まえなきゃいいのに」
一向に物怖じすることなく、少年は袍衣の袖を引っ張って直した。
「いいこと。今から半刻の間に此処から出た方がいいよ。大変な事が起こるからね」
「何です、大変なことって?私を担ごうってんじゃあないでしょうね?」
「冗談なんかじゃないよ。だって本当なんだもん」
「まだ起こってもないことが?」
志麟は眉尻を下げて、少年を揶揄するように笑った。混蛋(バカ)、と少年は口の中で呟いた。
「何が起こるかは判らないけど、とにかく此処にいちゃ危険なんだ」
ふん、と志麟は鼻を鳴らして見せた。
「確かに危険かもしれない。私は何しろ天下に名だたる剣客・戴志麟ですからね。命を狙う輩は幾らもいるし、そうでなくともこの御時世ですし」
「あんたが剣客というのなら、僕も剣客だよ。でも、今はあんたの首を狙ってる暇など無いから、逃げる。あんたも逃げ出した方がいいよ」
「・・・・・・?」
少年に執拗に言われると、さすがに志麟も奇妙な心持になった。それに、この少年の眸は不思議に説得力を持っていた。
「だが、私の兄弟子はまだ色街でよろしくやってるところかと」
「大丈夫、あの人なら心配要らないよ」
少年は踵を返した。何故、兄弟子の事を知っているのだろう。志麟は呼び止めようとした。だが、少年は客桟の門を出たところで立ち止り、振り返った。
「僕の名は、舜永(シュンウィン)。また会うよ、きっと」
少年の姿が消えると、志麟は自分が何時の間にか剣の柄に手を掛けていたことに気付いた。
《尚方斬風剣》。
尚方とは、或いは上方に作る。皇帝より下賜される御剣の最高を示し、臣下として最高権力を象徴した古代の剣(チェン)である。乱世においては、ましてやこの明の治世では有名無実の物だ。
斬風とは、文字通り風を断つことの出来るという意味合い。
辿れば随分と遠い謂れがあるのだという。
本来は、そのような有り難い剣など、一介の剣客である志麟には無縁の物なのだが。
志麟は、身震いした。用を足さなくてはいけなかった。
《銀柳客桟》を出ると、志麟は急いで妓楼街へと向かった。
少年がああは言ったものの、やはり兄弟子を見捨てて置くわけにはいくまい。長幼の序を重んじる由緒ある血統が疼く。
しかし、この銭塘の街に精通していない志麟のこと、一軒一軒回ってみようと試みたものの、却って花魁に引き止められそうになってしまう。そんなこんなで、輝鴻の行方はなかなか突き止められるものでは無かった。
そうこうしているうちに、それはやって来た。
俄に向こう側が波立ったかと思うと、幻のように武者達が海から現れた。その数は、暗闇では知れぬ程に見えた。長蛇のごとく速やかに街に侵入して来ては、武者たちは鬨の声を上げた。
火の手が遠近(おちこち)で上がる。
「これがもしや、広南の海に現れたという・・・?」
旅に枕し、風聞をたよりに各地を巡っている志麟も、その噂はかねてより聞いていた。これが所謂、倭寇か。
時に明国・嘉靖二十九年(1550年)。この銭塘江における夜襲は、そのはしりであったと、後の記録には残っている。三十年代に入ってからこそが、倭寇の本格的猖獗(しょうけつ)である。
兎に角、見慣れぬ出で立ちの荒くれ達が街を駆け巡って掠奪をしていることには、劫盗と何ら変り無い。
志麟は《尚方斬風剣》を抜いた。
(2)に続く
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