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温泉漫湯〜記

箱根・中伊豆篇(2002 2/9〜2/11)

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日目‐其の壱 (2/11) 晴れ
●修善寺梅林●

 午前6時に起床。眠たがるK2はほっといて、朝風呂へGO。今度は、この新井旅館自慢の「天平風呂」。日本画家・安田靫彦氏設計のお風呂です。
 また芥川龍之介もこのお風呂を愛したようです。「風呂の中から水族館のように鯉が見える」と言っています。庭園の池や川に鯉がたくさん泳いでましたね。
 檜造りで、芳しいお風呂です。でも、老人達の朝は早いのか、どんどん人が増えてきたので、早々に退散(笑)。
 朝は仲居さんに「修善寺梅林」の咲き具合を聞いて、五分〜七部だというので行く事にしました(この時点で三島神社はナシ)。
 旅館を出る前に、売店で「幸四郎まんじゅう」を買って出ました。もちろんあの松本幸四郎さんのお名前を頂戴したというお菓子だそうです。白餡にサツマイモを練りこんでいて、一口で食べられるのですが上品で後を引く美味さでした。このまんじゅうは新井旅館にしか売ってないそうです。通販は出来るようですよ(宣伝か?)。
 さすが、修善寺は梨園に馴染みが深い土地です。初代・吉右衛門、二代目・左団次も訪れたそうです。もしかして、松たか子も…?
 10時に出て、梅林まで徒歩約20分余。山道ですが、ハイヒールでも登れます。
 お天気は良くて、梅林からははるかに富士山が見えました。でも、すぐに雲に隠れてしまいましたけどね。
 日当りのいい西梅林は早咲きの梅が殆ど満開でした。紅梅、白梅、紅梅…と交互に見えて、しばし浮世の汚わいなど消え去ったかのような趣でしたね。
 ここには綺堂の『修禅寺物語』記念碑があるので、是非写真に収めたいと思って行ったのですが…「な、なんやの、この人だかりはー?」。
 そうなんです。記念碑の前は、「梅まつり」の露店が並んでいて、碑が隠れていました。
 「なんと、風情のない」と思いつつ、私はそこでわさびアイスなんぞ食べながら人気が減るのを待って、撮りましたけどね。「やっぱり、花より団子かい…」てな感じです。  尤も、綺堂の足跡をたどる、なんて酔狂な人間は数えるほどもないでしょうけど…。寂しい。

●範頼の墓●

 「修善寺梅林」を下って、こんどは蒲冠者・源範頼(?〜1193)の墓へと赴く。むしろ、『修禅寺物語』の主役である二代将軍・源頼家の墓よりも、私はこちらの墓に行きたかったのです。
 綺堂は「墓は宿(新井旅館)から西北へ五、六丁、小山(町)というところにある。稲田や芋畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと…(中略)…墓は思うにもまして哀れなものであった。…(中略)…この時、この場合、何人も恍として鎌倉時代のひととなるであろう。これを雨月物語式につづれば、範頼の亡霊がここへ現れて、『汝、見よ。源氏の運も久しからじ。』などと、恐ろしい呪いの声を放つところであろう」
 墓を見ながら、拙作『巷説・百華妖』「仏葬花」を思い遣り、「う〜ん」と唸りました。これがどうしても書いてみたかった範頼の墓か…。
 範頼は何となくですが、すごく好きだったんですね。『平家物語』読んだ子供の頃から。出番は少ないけど、無口で武将肌の男って感じで。そう、こういうイメージだったんですよね。範頼の雰囲気は。呪いの詞とともに、悲しい表情で亡霊が姿を表しそうな、静けさでした。でも、拙作のように、怨念を残したままのような雰囲気かと思えるけれども、ともすると何か「無常感」の漂う匂いもしました。
 K2は「義経(実弟)よりも、範頼の方が賢かったに違いない。でも、結局は弟可愛さに自分も死んでしまったのはバカバカしい。血の涙を流しても義経を斬っていたら、運命は変わったかも」と言うのですが、そういう末路を辿ったのは二人の異父兄・頼朝があまりにも残忍かつ非情な側面を持っていたからではないかと思います。そういう世の中でもあり、そうしなければ鎌倉幕府は成し得なかったのでしょう。或いは、範頼が生き残る事によって鎌倉の命運も変わったかも。
 などと、いろいろ感慨に耽りながら、範頼の墓を見詰め、「あ。綺堂が行ってた墓畔の茶屋もあるんだ」と思いつつ、後ろ髪引かれながら次の名勝へ。

●風の径・しゅぜんじ回廊〜竹林の小径●

 さあて、メインは終わった…のではなく。範頼の墓から歩いて川沿いの公園を散策。梅の枝にはメジロが鈴のようにぶら下がって、いっしょうけんめい蜜を吸う姿が愛らしい。そして、昨夜の宿を「竹林の小径」から眺めて写真を撮って見ました。それから、ちょっと早めのお昼です。お昼は、修善寺温泉バス停近くの「禅風亭・なな番」というところでとりました。実は、昼は毎日「そば」だったんですよね(笑)。「関東はそばやろ!」ということで、毎日。だしの色が濃いですね、関西味に慣れてると。でも断然、そばは関東だというのを、改めて実感しました。
 で、今回も「そば」。しかも「禅寺そば」というのに。地元のわさびをそのままつけてくれるので、お土産に持って帰ることが出来ます。おいしかったのは言うまでも無いです。(後からバスに乗ろうと、お店の前を通ると、すごい行列が出来てました)
 
●日枝(ひえ)神社〜修善寺●

 日枝神社はとくに散策コースに入ってないのですが、寄ってみました。範頼が頼朝の命で梶原景時に攻められた時、自刃したのがこの神社の場所です。真光院というのですが、徳川時代になって、その跡は廃され庚申塔のみになってしまいました。これも政治的意図でしょうか(平氏→源氏→北条(平氏)→足利(源氏)…のような権勢の変遷で)。
 なぜか「子宝の木」っていうのがありました(笑)。根元が繋がった杉の木で、「非情の木にも女夫(めおと)はある。人にも女夫(めおと)はありそうか」という、『修禅寺物語』の頼家の台詞を思い出します。
 綺堂は「石段のしたに修善寺駐在所がある」と言っていますが、今は見る影もありません。
 修善寺に上り、宝物殿へ。
 修善寺は大同2年(807)に弘法大師が開山した寺です。ということは、もともとは「真言宗」。その後約470年間は真言のお寺で、鎌倉時代に蘭溪禅師が間諜の容疑でここに軟禁されてから、220年間は「臨済宗」。その後畠山国清の謀反で一度消失し、韮山城主となった北条早雲が、再建したそうです。延徳元年(1489)に早雲の叔父・隆溪禅師を迎えて「曹洞宗」となって以来、禅寺です。
 なんだか禅寺、という雰囲気は見た感じはないですね。
 宝物殿では、やはり「くだんの古面を見よう!」と、いきまいて入りました。生憎、もう一つのメインである「大黒天」は修復中、ご本尊も修復中でした。
 やはり『修禅寺物語』に関しては一角のコーナーが設けてありました。左団次の夜叉王の写真と、綺堂の写真、舞台衣装。
 そして、古面は館内の中央に。
 じっと見詰めれば見詰めるほど、実際は「作者不詳」とされるこの面が奇怪に思えてくるもので…。夜叉王という面打師は実在の人物ですが、伊豆にはいなかったし、時代も違うのです。でも、もしかしたらもう一人の夜叉王がいたかも、と思わせる雰囲気があります。
 面相は、「実母北条政子の謀で湯船に漆を混ぜられ、全身が爛れてしまった源頼家を写しているのだ」と言いますが、実際は狒々(ひひ)か何かの面であり、それがこの地に流刑になった源頼家所蔵のものだった、と考えるのが無難です。
 とはいえ、綺堂の作り上げた物語は、あまりにも美しく、あまりにも悲しく、あまりにも惨たらしく、世の人々の心を打ったのでしょう。かくいう私も、こういう悲劇物語は嫌いではないですしね。
 それもこれも、ほぼ800年も古えの物語。誰がどんな筋書きを楽しもうと、其の時代の真実は誰にもわかりっこないんです。また、真実など伝わらなくてもいいのかも知れません。
 なんて、また古面を見ながら考えてしまいました。


→三日目‐其の弐へ 
 

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