DIAVOLOS
〜十二夜〜
第2夜 寒夜
(3)
金気臭い。血のにおいがする。
それは自分の流した血だ。眼底が黒ずむ。所謂ブラックアウトという状態。宙吊りにされた自分の姿が、頭の中の合わせ鏡に映し出されるのだ。
右足首に激痛が走り、熱を帯びてくる。裂けた下腹部から内臓がぐにゃりとはみ出してきた。
いや、この熱さは傷の痛みではない。逆流してくる全身の血の熱さだ。
煮え滾る血液の奔流が一気に脳関門を突破して押し寄せて来る。
足の傷口からは赤い飛沫が上がった。流れる。
赤い嘆きの水が、生命の水が流れ出す。
瞼は閉じられなかった。
睫毛を弾いて血が額まで流れ着いた。髪の先から滴り落ちる生温い液体。苦い体液の混じった赤黒い滴。
死ぬ。
死に行くことの喪失感が、弱りかけた心筋をぎゅっと収縮させた。
死ぬって何だろう。この期に及んで、そう思った。
何も考えるな。
いやだ。
頭が割れる。体が縮む。どんどん萎縮していくよう。
死ぬのは、いやだ。
ああああああああああ。
痛い。痛い。
声は出てるの?
こんな痛みなら、やっぱり死んだ方がマシ。
いっそ殺して、くれ。
死ぬのは痛いんだ。
いやだ。
でも、殺してくれ。
殺してくれ。
・・・お願い。
殺して。
次に瞼が開かなければ。
ガラス体に逆様に映っているのは、黒い影の巨大な鬼神。見たことの無い異形の悪魔が赤い血を全身から滴らせて、ゆっくりと立ち上がる。大地を蹴って。
視界が黒く覆われた。それが翼だと示している。
あああああああああああおおおおおおおおおおおうう。
頭が割れるよう。殺してくれ、ころして、くれ。
見るなよ。
そんな目でオレを見るなァアアア。
「眠いのなら、サービスエリアにでも寄るわよ」
運転席のユマが言った。万事淡々とした口調で。
不意を突かれて、ツトムは喉をごくりと鳴らした。軽く痰が絡んでいる。
名神高速道路を京都南インターから下りに乗り、茨木市に入るまでの約十分間で、ツトムは迂闊にもうとうとしてしまった。
午後十一時五十五分。普段なら、とうの昔に床に着いている時刻だ。
「・・・シニョールはキミに何を言ったんだ?」
ツトムは上半身をごそごそとずらしながら、ユマの横顔を見た。
「別に。大した話はしていないわ」
「キミのお母さんがシニョールの旧い友人だってことは聞いてる。故あって引き受けた依頼だろうがな。でもオレとは直接関係無い」
「それって、『オレの事は逐一他人様に知られる必要は無い』って意味?」
ユマはツトムの口調を真似て言った。
「正しい解釈だ」
いちいち癇に障る言い方だわね、と思ったがユマは黙っていた。
《黒い聖母の水》だの《サナナグネ》だの、真顔で説明するだなんて、只のイカレタ拝み屋でなきゃ、他に在り得ない。正しい説明が欲しい。目前にした以上、ボスコザーレのいう霊的能力とやらは信じないわけにいかなかった。だが、その発動源は一体何処に存在するのか。
ツトムは、ユマのむっつりした表情をサイドウインドウで確認し、一人北叟笑んだ。
二時間ほど前、ユマが教会に現れた時、ひどく顔色が悪かったのは只の仕事疲れの所為に見えたが、必ずしもそうではなさそうだ。
「一昨日変な男が私の研究室に来たでしょ?」
ユマはそういって、ダイニングに入る前から話を切り出した。
「ああ」
「五代リキっていうフリーのライターよ。私、というよりは私の弟の知人でね。新興宗教とか猟奇事件とかの胡散臭い記事を書いてる男。満更、私の研究分野と関係なくも無いから、たまにああやって顔出してくるけど」
ツトムは五代の顔を思い浮かべた。強烈な印象はイントネーションがきつい関西弁くらいのものだ。河内弁というヤツなのだろう。馴れ馴れしい雰囲気だが、決して嫌味は無かった。ツトムとは根本的なところで人種が違うかも知れないが。
「五代が持ち込んできた話ってのは、今回の事件の事だったの。偶然というか、何というか」
偶然ではないかも、とツトムはユマの言葉を噛み砕いて思う。
五代は十二月六日、七日の三つの事件があった直後から動き出していた。
「悪いタイミングてぇゆうんか、あの日な、現金輸送車のトラブルがあったやろ。ホラ横浜の信金の。それとドラフト会議な。で、変死事件はこんなこんなちっちょい地方記事になっとったけど」
五代は指先で小さな正方形を形づくってユマに見せた。
「やけにフットワークがいいのね、そんな記事で動くなんて」
ユマは皮肉を込めて言ったと覚えている。尤も、五代にはそんな手は通用しないが。
「この御時世やんか。オレもかつかつや。情報には敏感にならなアカン」
「というより、被害者の出身校がたまたまアナタの出身大学だったからでしょう?」
「さすがに鋭いですわ、真宮センセ。関西文科大学卒業生の小生としては、同じ文学部の後輩がいたわしく思えてなァ」
「それほど愛校信に溢れてるわけでもないでしょうに」
図星を突かれて、五代は照れ笑いをした。
「・・・コホ。当然といえば当然やがな。新聞も大学当局も被害者の名前なんか出しよらん。研究室の学生と教官に直接聞きに行ったんや」
五代は着崩した上着のポケットを探り、一枚の名刺を差し出した。名刺入れはさすがにきちんとしたものを携えているらしい、とユマは別の方に注目してしまった。
横書きで『関西文科大学・文学部・助教授・音無量寿(カズヒサ)』と書かれていた。
「パンキョー(一般教育)の時に受講したことはあんねん。オレ英文科やろ。考古学とは縁がないしなァ。案の定、向こうもオレのことは覚えとらんかった。何せ、十三、四年前の話やろ。あのセンセも講師なりたてやったし」
ユマは名刺を五代に返しながら、何よりも別に引っ掛かる事があった。五代が事件の顛末を知らないうちから『死者』を『被害者』と呼んでいることだった。
「死んだ学生は皆、音無センセのゼミ生やったで。考古学研究室の」
五代の口元が引き締まった。
「それが?」
ユマは平静を装って微笑を浮かべた。
「考古学教室」
五代はユマに顔を近付けた。ユマはニコニコ笑いを保ったままだ。
「知らんとはいわせへんで」
どすの効いた低い声で、五代はユマに詰め寄った。
「ケイの、自分の弟の通うてる大学は何処やねん?」
「関西文科大学」
「専攻、所属は?」
「文学部、考古学教室よ」
暫し沈黙が流れた後、口を開いたのはユマの方だった。
「ケイと事件の何が関係あるっていうの?たまたま同じ大学の同じ専攻だったというだけよ、ってな陳腐な事を言うつもりはないけど。事実、何も知らないのよ、私は」
「くそ、ムカツクやっちゃな。オレはだから事情聴収に来ただけやってのに」
「結論は早い方がいいわ」
「何やねん、オレもうあん時音無センセとあわや心中かと思うとったのに」
五代は歯噛みして悔しがった。
「心中って何よ?」
「あン?」
五代は真顔に戻った。
「こないだ後山って所に行ってな。音無センセが三月にゼミ生を連れて実習に行ったところや。あのオヤジ『そういえば死んだ学生は皆、あの時の調査に同行していたな』って言いよったからな。これはネタになる思うたんや」
「ネタ?」
「おう。『謎の連続怪死事件。遺跡に眠る怨霊の祟りか!?』ちゅう話題性のある記事にならんか?」
ユマはまともに返答する気にはなれなかった。
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