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DIAVOLOS
〜十二夜〜


2夜  寒夜

(2)

 宗教裁判所(インクィジション)あるいは異端審問所は、十三世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパ各地で流行した異端者弾圧の組織がその原型である。
 異端とは何か。
 ローマ・カトリック教会は、公式に定められた教義から逸脱する事、または教会の制度を否認する事を「異端」と称した。
 その「異端」を実践する者を「異端者」として矯正、或いは排除する権限が与えられていたのは、教団の長たる司教である。この原則は、古今を通じて変わらない。
 異端審問は、こうした司教の権限の外側、もしくはそれと重ねて設けられた教皇直轄の特別機関ないし制度の事をいう。
 つまり、司祭・司教らの通常業務とは別物である、という事だ。
 宗教裁判というよりも異端審問と呼ぶほうが妥当であるが、これは教会がさまざまな裁判権を有していた為に、便宜的にもその呼称が通じやすいのであるらしい。
 制度成立の背景は、勿論大規模な「異端」の発生にある。
 しかし、それ以前にカトリック教会が社会の中心制度として確立していなければ、「異端」はそれほど問題にもならなかった筈だ。
 そうでなければ、異端審問は、現代人の目から見て只の暴挙、あるいは殺戮の為の口実にしかならない。
 現代社会では、それを「テロル」として見なす事も少なくない。
 『異端』と呼ばれる存在は、キリスト教創始以来、いつの世にもあった。
 十二世紀半ばから、南フランスに広がったカタリ派が、最初の重大事件となる。
 1209年、アルビジョア十字軍が派遣され、南フランスはその動乱に巻き込まれた。異端審問の発生は、騒乱の収束過程に生じた。
 一般的な見解としては、1231年(あるいは1333年とも)の法王勅令が異端審問の始まりと考えられる。
 だが、実際には勅令以前に高まっていた「異端者」排除への運動そのものが、異端審問であり、制度はあとからついていったというのが、正確な表現かも知れない。
 ところで、十三世紀前半、教会法として制定され、カトリック至上主義の崩壊する十六世紀の宗教改革期まで、異端審問は実行されてきた。この制度には、専ら中世カトリックの代表的教団であるドミニコ会修道士が携わって来た。
 審問にあたっては、被告者の弁明や弁護は許される事無く、拷問さえ採用されたという。
 結果、『異端』であることが決定すると、被告者には罪科の軽重に応じてそれぞれ破門、市民権剥奪、罰金、懲役、焚刑などが与えられた。
 有名なボヘミアのフスの火刑などは、その代表であり、所謂『魔女狩り』も異端審問の類型であるのだ。
 十四世紀を代表する異端審問官ベルナール・ギーは、
「夫婦間を不和にさせ、未来を予言し、病を癒し、隠された宝を見つけられるという者には注意せよ」
と、『異端審問の実務』なる手引書の中で述べている。
 超能力を持つと考えられる者、あるいは教会、聖職者の権力を脅かす者、妖魅の類もまた『異端』の存在だったのである。
 その異端審問は、最も激しかったとされるスペインで1834年に行われたのを最後に中止された。
 19世紀半ばである。産業革命のほんの少し前までなされていたという、恐るべき事実でもあるが。
 表向きには。
 今日の聖務省が異端審問所を設けているとは、誰も思わないだろう。
 仮にその名残があったにせよ、現実に組織が機能し、異端審問官たちが活動しているなど、一般市民の誰もが考えないのだ。
 だが、異端審問官は実在する。
 表面上は、ごく普通の聖職者として生活し、ヴァティカンに危害と不利益を齎す者あらば、命を賭して任務を果たす彼等は。
「尤も、異端審問官本来の意義は、かなり薄れているがな。・・・というよりは、教会そのものが世界の制度だという価値観が無くなって、ナショナリズム全盛になってからは、我々は最早MI6やCIAのような活動しか出来なくなった」
 マリオ・ボスコザーレは、二杯目の紅茶をユマのティー・カップに注いだ。
「それもとんだ閑古鳥ね。スパイ産業はまるで時代遅れになってしまったわ」
 ユマは揶揄めいて言った。
「いやいや。もともとワシらは他国の諜報機関みたいに最新兵器や人海戦術を用いて仕事をやっとるわけじゃあない。大まかはやはり聖教にのっとってだな、実働は外部の人間を雇うんだ」
「傭兵を抱えるということ?」
「そういう事だな。トムの場合はやはり特殊でね。彼はどういうわけか常人に無い霊的感応の持ち主なんだ。超能力というと、マユツバ臭いが・・・」
 ユマは、まるで超能力だの霊的だのという言葉に関心が無かった。
 ツトム・ホーショーというつかみ所の無い男のエキセントリックな雰囲気からすると、或いはそう言う能力があっても不自然は無いかも知れない。
 それを信じる信じないの問題は別として。
「霊魂の存在を的確に示す能力とか、それによって所謂我々に禍を為すと考えられる負の力を持った霊魂と対峙し、排除出来る。現段階の科学では説明のつかないような事を解決するわけだ」
 ボスコザーレの説明は続いたが、ユマは上の空だった。
 一応の学者であるユマにとっては、そんな説明はどうでも良かった。一般論をとうとうと説明して貰えるのは有り難いのだが、聞いても仕方が無い気がする。
 理詰めで考えていっても、どうしても矛盾や微妙な食い違いが、学問には在り得る事だ。そんな事を今更言われたって。
 何か違う。もっと他にある。ボスコザーレは、肝心の所を上手く隠そうとしているような気がするのだ。
 廊下から足音が近付いて来た。
「おっと、お喋りが過ぎたかな」
 ボスコザーレは振り返った。トレンチコートを抱えたツトムが、ダイニングの入口に立っていた。既に出支度が完了している。
「お待たせ」
 ツトムの言葉で、ユマは弾かれたように椅子から腰を浮かせた。ボスコザーレは壁に掛かった時計を見上げる。
「ワシもそろそろ寝るとしよう。修道士の朝は早いんでな」
 ボスコザーレは、不審顔のユマに笑い掛けた。


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