DIAVOLOS
〜十二夜〜
第1夜 常闇
(3)
ひび割れたコンクリートの壁の向こうから、タンパク質の焦げる異臭が漂ってきた。
ユマは、思わず鼻を摘んだ。煙は上がっていないのに何でこんなに焦げ臭いのだろう。
ポプラの樹下に黒いコートの影。宝生ツトムだった。足元にはジュンの死体が仰臥している。ツトムは、小型のペットボトルのような容器から、何やら水のような透明な液体を屍の上に、ごぼごぼとかけた。
息を呑んだ、ユマの気配にツトムがゆるりと振り返った。
にこりともせず、再びツトムはジュンの死体に視線を落とす。そうして、呪文めいた言葉をぶつぶつと呟いた。
「《黒い聖母の水》。つまり聖水だ」
十秒と数えきらないうちから、ジュンの胸が波打ち始めた。
ぐりゅ、ぐりゅる。
喉から大量の血液が溢れ、死体の口許を汚した。蒼褪めた顔の下半分が、禍々しい赤色に染まる。半開きの唇から、米粒状の白い物がうじゃうじゃと這い出して来た。
「う・・・」
蛆虫、と言い掛けて、ユマは口元を押さえた。
ツトムは何気ない仕草で、血溜まりの中から白い虫を一匹摘み上げた。ユマの目の前に、嫌がらせのように差し出す。
「蛆虫じゃない。火沫虫(サナナグネ)だ」
「サナナグネ?」
火沫虫と呼ばれた虫は、じっくりと観察すれば、確かに蛆虫とは異なる。短い無数の節足と角が生えている。引っくり返すと、腹部に火の粉のような赤い斑点と小さな牙が見えた。
「絶滅した筈の古代生物だ」
「古代生物って?」
ユマは鸚鵡返しに言うしか無かった。
「本来は皇極天皇の時代、富士川のほとりで常世の神として祀られた虫。邪教の信仰として滅せられた後に、変形した姿が、この火沫虫だとか」
ツトムは、指先で白い虫の腹を押し潰した。
ブチ、と赤い血が弾けた。
「小さな体に似ず凶暴で、動物特に人間の内臓を好む。人体の孔という孔から侵入して、内側からすべてを喰らい尽くす悪鬼。何十匹というこいつらが体内に入り込んだら、ものの半日も経たない内に・・・」
「アナタ、この子が何で喰われてるって判ったの?」
ユマはすかさず詰問した。
「拝み屋だ。当然だろ、といいたいところだが火沫虫が真っ先に喰いつくのは、消化器系統か脳だ。脳味噌喰われてる人間の顔なんて、一目瞭然だ」
ジュンの体外に排出された火沫虫は、もう既に大半が動かなくなっていた。
ユマは、込み上げる吐き気を堪えつつ、白くていやらしい虫の末期を見詰めた。動きが止まった虫達は、まるで雪のようにあっさりと血液の中に溶け込んでいった。
「この世に存在しない筈の火沫虫が出てくるなんて、どういう事だ?」
ツトムは、誰に問うでもなく、呟いた。
「知りたいのはこっちだわ」
ユマは、自分の両腕を抱えた。
「アナタ、何で火沫虫のことだとか、知ってるのよ。それに、この子の死に方・・・まるで同じだわ」
ユマは自分自身の言葉に身震いした。
「こないだの事件と同じ――」
バーズ・アイランドの白いビーチに船影が落ちた。
道案内の少年が、巨漢のイタリア人を砂浜に手招いている。マリオ・ボスコザーレは、慌ててストロー・ハットを拾い上げると、駆け出した。
褐色の少年は細長い手足を伸ばして、ぐんぐん森のほうへと小走りに進んでいく。
「おいおい、待ってくれ」
齢六十を過ぎて、めっきり運動不足になったボスコザーレの心臓に、少年の身軽すぎる道案内は、少々堪える。
マングローブの森を抜けると、さらに少し小高い丘があって、そこも熱帯雨林に包まれた野鳥の住処だ。姿は見えねども笑いさざめく鳥達の声だけは、ボスコザーレの耳にも入った。
少年は森の奥の丸太小屋を指差した。
「ありがとう、坊主。元気でな」
ボスコザーレは、そう言って少年の乾いた掌にコインを数枚握らせた。
丸太小屋には、人の気配はない。
ホホウ、ホホウホウホウ。
キィキィキィ、キィキィ。
甲高い猿の様な声が響いた。続いて、枝葉を掻き分ける音がした。ボスコザーレは口髭を撫でた。
「あなたもヴァカンスを?シニョール」
釣竿を手にした宝生ツトムが、声を掛けた。
摂氏35℃を越える外気温の中でも、白いリネンシャツに黒のスラックス姿だ。やや額が汗ばんでいる。瞳だけが、静かに微笑んでいた。
「中へどうぞ」
ボスコザーレは、促されるまま、丸太小屋に入った。
食堂兼客間になっている空間に案内され、ボスコザーレはほう、と唸った。まるっきり文明の利器とかけ離れた生活を体現していたからだ。電気は、通常島々では海底ケーブルを利用している筈だが、ここでは小型バッテリーを使っているのだろう。明かりは、自然に委ねられたままだ。
「本島の教会へ行ったら、一昨日からここだと聞いたんでな」
「教会がヒマになったら、いつもここに来るんです」
ツトムは小さな電気ポットにコンセントを差し込んだ。
ボスコザーレは、テーブルの上に無造作に置かれた『観葉植物図鑑』やら『蘭の育て方』という本に、視線を遣った。
「夜は、天窓から天然のプラネタリウムが鑑賞し放題ですよ」
ツトムは言った。
「何しろ、セイシェルには外国人以外に悪人はいませんからね。告解に来る人もいない」
「なるほど」
ツトムは、インスタント・コーヒーの粉末を適当にマグカップに入れる。ボスコザーレは、本当はインスタントなど勘弁してほしいところだが、ここで贅沢は言っていられない。
「シニョール、まさかオレの仕事っぷりを監視しに来られたんじゃあないでしょうね?」
ツトムは、忍び笑いを洩らした。ボスコザーレは、黙って首を横に振る。
白いものが三分ほど口髭に混じったマリオ・ボスコザーレ。屈折したなりに、伸び伸びと奔放に育った宝生ツトム。この二人の年齢は親子以上に離れていたが、お互いに、親子以上に近しい存在であった。
「毎度のことだが、察しがいいな。キミは」
ボスコザーレは、一通の白い封筒をひらひらとさせ、ツトムに手渡した。
紫のリボンが付いている。聖務省関係者に通知する公文書であることを示していた。
「今度は、ラップランドにでも行け、というんでしょうかね」
「開けてみたまえよ」
ツトムは、封筒を開いて一枚の紙切れを取り出した。
文面を追う視線が、一瞬揺らいだ。
「不服かね?日本へ戻るのは」
ボスコザーレは、片目を瞑って見せた。淹れてくれたコーヒーは、あまり美味くないが、ツトムの表情に何がしかの精気が見られたのは、喜ばしいことだった。
「ヴァティカン以外なら、何処でもマシ。でも、今更日本で何をしろと?」
ツトムは唇をゆがめた。元々皮肉めいた口元が、更に世を拗ねたような形に引き攣る。
「キミを出向させることにしたのは、このワシだよ」
「はぁ?」
「そこで一つ頼まれてくれ、トム」
と、ボスコザーレは親しみを込めてツトムに呼び掛けた。
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