DIAVOLOS
〜十二夜〜
第1夜 常闇
(1)
真っ二つに裂かれた氷輪が、中空の暗い間に貼り付いている。
ひたっ。
ひたひたひた。。
「はっ・・・」
ユマは振り返った。そこに在るのは、唯の空虚な黒い空間でしかないのに。
ひたひたひた。
裸足の足音が近付いて来た。
闇から二本の青白い腕が伸びた。振り払おうとするユマの凍えた頬を、両の掌がはっしと捉えた。
「ねえさん・・・」
青白い腕が呟いた。ユマは固く瞼を閉ざしていた。ぬるりと生温かい何に濡れた感触と、冷たい息だけを感じる。
「オレが見えないの?ねえさん」
ユマの瞼の裏にぼんやりと、弟の面差しが浮かんだ。生意気そうでいて、何処か寂しげな表情が。
「どうして?ねえさん。オレを避けるんだ?」
ユマはその問いには答えない。
「いつもオレに背中を向けてる。小さい頃からずっと、そうなんだ。何故なんだよ、ねえさん」
掌が震えていた。頬とその隙間から、何かが滴り落ちた。
「泣いて、るの?ねえさん」
「・・・泣いてなんかいないわ」
漸くユマは唇を開いた。
「ど、こ・・・」
「何処へも行きはしないわ」
「い、き・・・」
「目を開いてはダメ、動いてはダメ、何も感じてはダメ」
「な、ぜ?」
「これ以上喋らないで。もう、あなたは・・・」
「も、う」
ユマの喉が見えざる力に締め付けられた。
「生きてはいないの」
ユマは目を開いた。
弟の生意気そうで、少し寂しげな笑みが目前にあった。赤い血の涙で頬を濡らした白い貌が、ふらりと傾いた。ユマの頬から血染めの手が離れた。
「あ、りがと・・・ねえさん・・・」
その顔が涙で歪んだ。
闇の中でユマは目覚めた。エアコンの暖房設定は切れているというのに、背中といい、額といい、寝汗でぐっしょりと濡れていた。
「・・・・・・」
喉が渇いて痛い。夢だとわかっていても、心臓が早鐘のように鼓動を打ち続けていた。何度か見たことのある夢にも拘らず、何故こんなにも気持ちの悪いものなのか。否、見るたびに現実味を増していくような気がする。
ユマはベッドを出ると、急いで隣の書斎へ飛び込んだ。受話器を取り、短縮ダイヤルのNO.1を押す。
トゥルルルル。トゥルルルルルル。
コール三回で調子が変わる。
「こちらは留守番電話サービ・・・」
メッセージの途中で、ユマは受話器を置いた。
「ケイ――」
後山(うしろやま)という小さな山がある。大阪府三島郡島本町。高槻市側から上ると、水無瀬川に沿って、西北の方向である。然程、深い山ではない。というのは、周辺にゴルフ場があるくらいの山だからだ。
午前6時。まだ暗い山の空気は肌を刺すように冷たく、行く手の前を流れていく。先日の雨で、足元はややぬかるんでいた。
「さぶいっ。さぶいなぁ、ホンマ」
五代リキは思わず肩を竦めた。
「これがルートですか?先生」
大声で叫ぶ五代に、「先生」と呼ばれた音無カズヒサが振り向いた。音無は、無言でこくりと頷いただけだった。
「殺生やで」
五代はぼそっと呟く。だが、音無は全く構わずに、常緑樹を掻き分けて進んで行く。
「くそ。こんな所でババ垂れてもしゃあないな」
関西文科大学・文学部・考古学研究室の音無班が、この後山の調査に入ったのは八ヶ月前、三月の初旬だった。
そもそもの始まりは、一通のメールだ。
発信主は、新大阪カントリークラブというゴルフ場の管理人だった。ゴルフ場の敷地内に妙な建物があるので、調査して欲しいという依頼に始まる。土地感の無い者ならば、何ゆえにゴルフ場が、と訝るところだが、五代は初めてこの話を聞いた時も、別段不思議には思わなかった。
関西文科大学は、新大阪カントリークラブの真南に位置しているのだ。
創立は、昭和初期であり、前身は東大阪の外語学校だが、戦後の大学創設以後、郊外に移転した。現在、学部は六つに増えて、私学文科系の総合大学としては、中規模に発展した。バブル華やかなりし頃、一時期カントリークラブとの間の山を買収するしないで、内外巻き込んで揉めていたものの、結局沙汰止みになっている。
詰まる所は、その時代に買いそびれた土地から何か出て来たというので、まったく知らぬ存ぜぬという訳にはいかなかったのである。
「こらこら、五代君。そっちじゃない」
音無が、きょろきょろする五代を窘めた。
「恐らくは、今通ってきた道は、古参道だ。今でこそ判り難いが、いや、わざと判り難くしてあるのかも知れんなあ」「へえ」
デジカメを回しつつ、五代は頷いた。音無は、五代に向かって、参道と方位の解説を始めた。
「おいおい、まだ件の場所に行き着いとらんちゅうのに、相変わらず元気なオッサンやな・・・」
五代の呟きは、音無の耳には入っていないようだ。
確かに赤土や木の葉に埋もれているものの、それがかつて人工の道であったことを示すかのように、規則性のある石の並びが見られる。
道を上り詰めたところで、こんもりと広がった小暗い森と、殆ど倒壊状態の社が目に入った。
「何て、読むんですかね?」
五代は、鳥居らしい柱の一本に触れた。元々丹塗りなどなかったのだろう。苔生した杉の柱だ。
「貴子神社。《うづのみこじんじゃ》と読むべきだな」
音無は、淡々と言った。
「うづのみこじんじゃ?聞いた事ない神社やな」
「《三貴子》(みはしらのうづのみこ)のことだよ。思い出さんかね?」
「いやぁ、すんません。オレ出来が悪かったもんで、大学ン時から」
ふん、と音無は呆れたように肩を竦めた。確かに、五代の一般教養における日本古代史概説の成績は、良くはなかった。
「イザナギが黄泉比良坂から戻って、穢れを落とした時に生まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオのことだよ」
ほう、と五代は目を丸くした。ひとしきり、鳥居の周辺を眺め、鬱蒼とした木立を仰いでから、唇を皮肉に歪めた。
「すると、ここはお伊勢さんの出張所みたいなもんですか?全国に出雲大社とか春日大社とかのの分社があるみたいに」
音無は、即座に首を横に振った。
「伊勢神宮は、あれはそう古いものではない。後山の方が、遥かに古いものだよ。キミは、いや多くの一般人は誤解してるかも知れんが、伊勢神宮のアマテラスは・・・」
「まぁまぁまぁ」
五代は、音無の口を押さえた。
「センセ。それよりも、内部を見せてくださいよ。写真とかバッチシ撮りたいし」
音無は、そういう五代の口車に嬉々と頷いて、社の方向へ近付いた。
鳥居は落雷で老朽化した木が倒れたと推測出来たが、社は他の、もっと強い衝撃でもって上から押し潰されたようにも見えた。
「地震か何かでしょうか?」
「いや、ここらは活断層から外れている筈だが」
音無は、きっぱりと言った。
「裏手へ回ろう。石棺らしきものがある。まだ未調査なんだが」
そこには、一面ぬるりとした苔が貼り付いた長方形の岩が在った。丁度、やや小柄な男が一人寝られる程の寸法である。
俄に、五代の胸の奥がざわめいた。
「でも、これ。地中に埋まってますね。中はホンマに空洞なんですか?」
「そうなんだよ。蓋が埋もれているもんだから、容易に調査出来なくてな。ファイバースコープを使うことになるかも知れんが」
五代は、不意に石棺から目を逸らせた。
「・・・・・?」
鳥居の向こうの木立の間から、チラ、と何かが動いて見えた。人影のようにも思えた。
赤い色彩。こんな朝早くに、鳥でも小動物でもあるまい。大体、不自然な色彩だ。だが、次の瞬間には、幾ら目を凝らしても、何も見えなかった。
「まさかな」
音無と二人で登って来た時は勿論、今の今まで他に人の気配はなかった。
と、思って石棺に視線を戻した瞬間、五代は鈍い痛みを後頭部に感じた。
「う・・・」
五代は、頭を遮二無二振って、社の方へ歩き出した。
「どうした、五代君!?」
音無の声は聞こえていない。
まるで別人のような動きで、五代は傾いた社の隙間に入り込むと、素手で何かを掴み、力任せに引き抜いた。
「ぬおおおおっ」
土塗れの手が握り締めていた物は、錆付いた大きな鋲であった。五代の手指の間から、それは崩れてほろほろと零れ去った。
「ご、五代君、それは・・・」
音無は、目を見開いた。
矢庭に地面がぐらり、と揺らいだ。
「地震か?」
音無は身を屈めた。社が軋み出した。
とても立ってはいられない激しい振動が始まった。
おおおおんん。おおおおおう。
地の底から、人の叫びとも獣の唸りともつかぬ低い轟きが、音無と五代の耳を捉えた。
「お、おおわわわっ。な、何・・・・!?」
五代は我に返ると、地面に転がった。身体中を唸りが突き抜けて行く。樹木は薙ぎ倒され、社は総て倒壊し、やがて鈍い音を立てて、黒い影が五代の頭上に覆い被さった。
石棺の蓋が、ゆっくりと持ち上がった。
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