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オーパス・ワン 1999

 
幕間の十分間。
「五分だけ、時間を下さい。気合入れなおして来ます」
 ルリはそう言った。額の汗を拭う私。私は全くルリの顔を見ていなかった。鏡張りの楽屋で、色とりどりの生花が噎せ返る様に咲き誇っていた。その間にひっそりと置かれたワインのボトルが目に付いた。
 ボトルネックに青いリボンが結ばれていた。誰だか公演祝いに持って来てくれたのだろう。
 私はルリの背中とボトルを同じ視界に入れていた。
 [オーパス・ワン]―知る人ぞ知るカリフォルニアの銘醸ワインだ。確かに華やかな舞台には相応しいだろう。
 ややあって、ドアが閉まる音がした。私は、やっと孤独を取り戻した。
 ルリとは、師弟の間柄だ。初めて取った直弟子だ。だが、その間柄をあっさりと越えてしまったのは、私の迂闊だった。
 タンゴ・アルゼンチーノを踊る上で、ペアはお互いが精神的にも密着していなければ息のあったステップは踏めない。
 昔から言われて来た、体のいい言い訳にも似た先人の言が、頭を舞う。その理論に則って、私は一体幾つの恋をして、幾人の女と夜を紡いできたのだろう。来月で不惑の歳になるというのに。
 女房は愛想つかして、半年ばかり海外に行ったまま戻って来ない。
 この舞台は、私が独立して五周年の記念公演。今回を機に、私は活動を後進の育成に力点を変えようかと考えていた。まだ引退する歳ではないのだが。
 そんな時に、女房は一体何処の男と遊び歩いているのやら。
 まあ。他人の事は言えないか。
 ルリは戻って来ない。
 私は[オーパス・ワン]の無機的なボトルの曲線を見詰めた。
 ひょっとしたら、もう二度と戻って来ないかもしれない。
「センターであんな無様を曝すなんて!バカヤロウ」
 些か怒鳴りすぎたかも知れない。手も上げてしまった。石崎が止めに入らなければ、私はルリの顔をぶっていただろう。ダンサーの顔を殴るなんて。我ながら酷い男だ。
 ピン・スポットが当たったときに、ルリは転んだ。震える笑顔で立ち上がるルリを、私は鬼のように見据えた。大馬鹿者。誰がお前を此処まで育てたと思っているんだ。
「あなた以外の人と踊るなんて、自信ない」
 二ヶ月前、ルリはレッスンが終った後にぽつりと言った。私は何も言わなかった。師匠であり、タンゴ教室の主催者である私の言葉は絶対だ。
「石崎さんは上手いけど。違うの。私はあなたのダンスにずっと憧れていたの。ずっと憧れて、やっとあなたに認めて貰えて」
「パートナーとはより精神的に近寄らないと、タンゴは踊れない」
 私はそう答えた。
「私に石崎さんを好きになれ、というのね」
 ルリの暗い瞳をはっきりと覚えている。

 照明が変わった。私は緞帳の傍に立っていた。ダンサー達が舞台に花の様に散らばる。バンドネオンの演奏が胸を突くように始まった。
 ルリは照明で輝くラメ入りの深紅のドレスを纏い、舞台の中央に立った。
 ピン・スポットが丸くその身体を包んだ。ルリの真っ直ぐな腕が伸びるのを、私は見た。きりりと引き結んだ唇。楽屋で言った言葉は、誤魔化しでも彼女自身への慰めでもなかったのだ。
 スリットから伸びた脚に、赤い花が散った。
 薔薇の花びらを降らせるなんて、演出予定には無かった筈。私は瞠目した。ルリの右手指の間に光る、鈍い輝きが弧を描く度、赤い花びらは散る。
 ルリは微笑んでいる。
 ドレスの赤よりも鮮明な赤い滴を全身から迸らせながら。まるで赤い葡萄酒の滴り。
 観客席から、悲鳴が上がった。ダンサー達は、どよめいた。私一人が喝采を送った。ルリは、凄絶なタンゴのソロを踊っている。
 無意識に、私は舞台の中央に向かって歩き出した。
 私は、ルリの熱演に応えてやらねばならない。
 [オーパス・ワン]は、「作品第一号」という意味だ。ルリは私の「作品第一号」。
 彼女が血を流し切るまで、パートナーをつとめられるのは、やはりこの私だけなのだろう。



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