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ペガサスベイ・リースリング 2001


 ヨメが産気づいた。オレは慌ててマンションの階段を駆け下りてから、ヴェランダからヨメ本人に呼び戻されて病院に電話しなきゃ、と気付くほど動転しまくっていた。
「慌てんといて、まだだいじょぶそうやから」というヨメを西陣の病院に連れて行くためにオレはタクシーを呼んだ。が。
「お客さん、あきまへんで。今日は何の日か知っておますやろ?16日ですがな」
「はぁあ?16日がどないしたんや、じゅうろくにち…」
 しまった。オレは枚方生まれの枚方育ちで大学まで枚方だった。住み始めて三年だが、京都のことはなんも覚えてない。
 八月十六日。大文字の送り火だ。
「うわちゃー。タクシー動けへんねんて。北大路堀川からえっらい渋滞や。どないしたらええんやぁ」
「もう、そないに慌てんといて。ゆっくりいったらええって」
 そうは言うがヨメよ、オレは車の免許はあるが今は原付しか足がない。それも50ccだから二ケツは出来ないのだ。尤も、腹の出たヨメをバイクにしがみ付かせるわけにはいかないが。
 オレはヴェランダに出て恨めしげに左大文字を睨み付けた。去年までは風流やなと思っていた灯りが、これほど恨めしく思えたことはない。
「とりあえず、病院に電話したんやったら出よ」と、ヨメは脂汗を掻きながらえっちらおっちら風船みたいな腹を抱えてマンションを出た。女はこういう時胆が据わっている。
 西大路は、日頃は暇げな警官も交通整理に出るほど混雑していて、コンビニの前にも所狭しと屋台が並んでいた。商売気たっぷりだ。オレはヨメの背中を支えつつ、人通りの多い歩行者道路を西へ進んだ。
「ああ。きれいやわぁ」
 ヨメは不意に呟いた。お前、送り火なんか見てる余裕あるんかい。
「死んだ人が帰っていくんやねぇ。すごいわぁ」
「暢気やな、お前」
「焦ったかてしゃあないやろ。赤ちゃんの気分次第や…あっ。いたたたたたぁ。うううー。きたぁー」
 やばい。陣痛の波がやってきた。ヨメはスイカを抱えたみたいな腹をせり出して、道路にしゃがみ込んだ。オレは成す術もない。やはりタクシーを拾うしかないだろう、と大路に出て手を上げた。
 すると、見た様な軽トラがパッシングしやがった。
「おう、どないしたんや」
 と、顔を出したのは近所の酒屋『エスポワ・キムラ』のオヤジだった。相変わらず日に焼けたパンチパーマの岡八郎のような顔のオヤジは、うろたえるオレと悶えるヨメを見て自体を察したらしい。岡八郎ってのは、かつて「くっさ〜」で一世風靡した吉本のカリスマ芸人だ。要するに猿顔だ。
「そらアカン。車動けへんで。ちと待っとりやー、うちから新兵器もってきたるさかいに」
 キムラのオヤジは、オレに軽トラのキーを預けて飛ぶように店の方へ駆け出して行った。まったくもって猿みたいだが、実に警戒で頼もしい後姿だった。
 五分後、バフバフという排気音と共にノーヘルのキムラのオヤジが颯爽と登場した。
「ヤマハのフュージョンや。これに乗れ、これやったら腹つかえんで」
 オヤジは勇ましく言い放った。ロス市警のパトロール警官なら似合いそうな大型スクーターだが、エテ公面のキムラのオヤジが乗ると猿回しのような、いや今はとてつもなく頼もしいオヤジの姿にオレは涙が滲んで視界がぼやけた。
「すまん、おっちゃん恩に着るで!」 
 オレはよろめきながらヨメを後に乗せて、自分はシートに跨るとオヤジの手を握り締めた。
「ええから。はよ行きや。その代わり、女の子生まれたら大きゅうなったらいっぺん乳揉ませ言うとけや」
 くそ、エロオヤジめ。
 病院に着いて二時間もしないうちに、ヨメはあっさりと産んだ。初産というのに、とても軽かった。暗い病院の廊下で一人抱えていた不安が喜びに変わる。オレもオヤジになったのだ。実感はないが、そうらしい。
 キムラのオヤジがひょっこりやって来た。片手に黒い瓶、そしてもう片方の手に紙コップを持っていた。
「生まれましたわ。女の子です。おおきにおっちゃん」
「おお、そうけ。良かったなぁ、ほな…」
「絶対揉ませへんけどな」
「いや、ちゃうちゃう。まぁ祝い酒や」
 オヤジは既にコルクの開いたワインボトルを掲げた。紙コップにワインを注ぐと、オヤジはオレを呼んで病院の外へ出た。
「今朝仕入れたニュージーランドの白ワインやねん。よう冷えとるで」
 ボトルのラベルには、ペガサスベイ・リースリング2001とあった。オレはワインにはまったく詳しくなく、『エスポワ・キムラ』に行ってもひたすら発泡酒か缶チューハイしか買わない客なのだが。オヤジは何か思うところあってってか、オレに不似合いなワインを用意したようだった。
「甘い。これ美味いなぁ」
「まだ飲むなや。ほれ、送り火映して飲まんと」
「送り火?」
「せや。送り火を酒に映して飲んだら一年は無病息災やで。まぁ、ホンマはポン酒でやるんやけどな」
 紙コップの透明な水面に左のはらいが欠けた大の字が映っていた。
 無病息災、無病息災。オレ自身でなくて、生まれた子供に。ヨメに。キムラのおっさんに。
 娘の名前は決めた。
 ペガサスベイのペガサスは天翔ける馬。翔子にしよう。由来はと聞かれたら、キムラのオヤジにきいてくれとでも言う。
 でもいっぺんたりとも乳は揉ませない。


【ペガサスベイ・リースリング2001の解説へ】

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