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シャトー・ル・パン 1999




 Q氏は一つの信条を持っていた。
「幸福の裏には必ず不幸あり、善徳の裏には必ず悪徳がある」。
 従って、常に対抗する幸不幸、善悪は拮抗し合ってプラスマイナスゼロであるのが世の中なのだと、Q氏は信じて実行をやまなかった。
 或る日はガソリンスタンドで給油した際、一万人目のお客様なので電波時計を差し上げますと言われた。後ほど時計の値段を電気店で調べ、ほぼ5,000円相当だと判ると、Q氏はすぐさま電気店の駐車場の柵に右バックランプをぶつけて割った。修理代はやはりほぼ5,000円だった。
 また或る日は、駅の階段を滑り落ちかけた老人の腕をとって助けた。今時珍しいと感激されるわ、老人の言うままに近くのカニ料理店へ連れて行かれ、また出てくるるままに高級なカニづくしを食べて帰ったが忸怩たる思いに駆られ、公園の階段を下りる塾帰りの高校生を突き落として相殺した。高校生は軽い捻挫で済んだ様子で、暗がりだったゆえに、誰かに見付かる心配はなかった。
 どうあっても良い事があると悪い事がなくては落ち着きがなく、よい行いをしてしまったら後は悪い行いをせずには気が収まらなかった。そんな風にして四十余年人生を送ってきたQ氏は、幸いにもまだ逮捕された事もなければ訴えられた事もない。

 9月のある蒸し暑い日だった。
 Q氏は出勤するなり、営業部長に呼び出された。何事かと顔色を青くして応接室へ向かったら、副社長がいつもの仏頂面でQ氏を迎えた。
「勤続二十年の表彰状と金一封である。君は入社以来特に好成績を上げたわけではないが、取り敢えず欠勤も遅刻もないのが取り得のようだ。今後も宜しく頑張りたまえ」と、やはり無愛想な口調で言った。
 そういえばそうだった。社内メールで告知されていたような気がする、とQ氏は思い出した。後でこっそりトイレで金一封の中身を覗くと、それは10万円のビール券だった。なるほど不景気で現金は出ないのだ。
 さて、Q氏はその日一日悶々として過ごした。
 まさか降って湧くとは思いも寄らなかった10万円のビール券。これを何とかしなければならない。その事ばかりで、やはり仕事が手につかないのだった。
 定時で会社を出、家までの道すがらQ氏は駅前のリカーショップに立ち寄った。
 つい半年ほど前に出来た大型量販店の支店だ。Q氏自身は入るのが初めてだった。
 レジカウンターの脇にみっちり並んでいるダンボールのビールケースを眺めると、どれもせいぜい高い輸入物で1ケース4000円くらいのもので、「激安」と書かれたものに至っては2500円程度に収まってしまう。
「こんなものを25ないし40ケースもどうやって持って帰れるんだ」
 Q氏はぞっとしない心地でカウンターを過ぎると、店内一周の旅に出た。
 なるべくなら軽いのがいい。通勤カバンに収まる程度の。目的の酒を求めてQ氏はさまよい、ワインコーナーに辿り着いた。
 ボルドー、ブルゴーニュ、ロワール地方、イタリア…さまざまのワインが所狭しと並んでいる。無造作に木箱に入れられているのは一本980円程度のデイリーワイン。ガラスケースに入っているのはボルドーのメドック格付けのものばかりだ。とはいえ、Q氏はまったくワインに詳しくない故に、単なる文字だらけの無愛想なラベルのボトルが並んでいるとしか思えなかった。まるで副社長の顔に似ている。
「しかし、どれも高くてせいぜい4万だ。このシャトー・ディケムとやら。二本なら入るだろうか」
 と、Q氏は右手に提げた通勤カバンに無言の相談を持ち掛けた。だが、長年愛用したカバンの持ち手は許してくれそうになかった。
 已む無く諦めてブランデーのコーナーに移ろうとした時、Q氏は信じられないものを見た。
 ワインセラーとは呼べないような粗末なガラス張りの一角に燦然と輝く一本のワイン。緋のビロードの化粧箱に入れられディスプレイされたそのワインで、何が最もQ氏の目を引いたかというと、値札だった。
 通常価格100,000円。
 何度もゼロの数を数え直してみたが、やはり100,000円に違いなかった。それが特別価格で95,000円になっている。税込みで99,750円だ。これは買いだ。
 Q氏は早速カバンを床に置き、ガラスケースに手を掛けた。
 しかし、ケースはびくともしなかった。鍵が下方についているのだが、それも見た目以上に頑丈でいっかな外れる気配がない。
 ガタガタとやっているうちに、背後に人の気配がした。Q氏が振り返ると何やら怪訝そうな顔付きの若い女店員がいた。
「あの、お客様。そこは係に言って頂かないと施錠してますので。宜しかったら開けましょうか?」
 女店員は言葉こそまあそれなりに丁寧だが、いかにも面倒くさいといった風情で言った。Q氏は思わず憤慨した。
「何を言ってるんだ、君。係に言ったら万引きにならないじゃないか」
「はぁ?」と、驚くばかりの女店員の反応は無視してQ氏は続けた。
「こんなぴったりの品物は他にないんだ。少々お釣りがくるのは仕方ないが、ほぼ10万円だ」
 Q氏はビール券10万円分を誇らしげに店員の前で閃かせると、またガラスケースを壊す作業に取り掛かった。
 若い女店員ははじめ何の事やら皆目理解出来ずにいたのだが、だんだんとQ氏の異様に熱を帯びた行動を眺めている内に我に返った。
「あなた何を言うんですか。そこにビール券があるならそれで買えばいいじゃないですか。何で万引きなんかしようとするんですか、やめて下さいっ。ケースが壊れたら弁償して貰いますからねっ!」
「ダメなんだ。この券で買ったらダメなんだ。いや、買うという正当行為が許せない。それじゃあプラスばかりじゃないかっ」
「何をワケのわからない事言ってんの、このくそオヤジ!手を離しなさい」
 女店員はQ氏の肩に組み付いて引っぺがそうとした。だが、Q氏もさるもの、ガラスケースに頬をべったり押し付けて離れない。
「絶対にこれを盗んで帰るといったら盗んで帰るんだ!」
「ざけんじゃないわよ、あんたなんかどシロートにこのシャトー・ル・パン1999年を盗ませてたまるかっての!」
 やがて騒ぎを聞き付けた店長やら他の店員、はたまた客までもがこの二人のわけの判らない遣り取りを見守ることとなった。
 女店員は叫んだ。
「離さないとケーサツ呼ぶわよ、ケーサツ!」
 直後にQ氏はガラスケースから手を離した。
 

 Q氏はリカーショップの店長、女店員らと話し合った結果、名目上はワインを盗んだことにして後日ビール券を引き換えにするツケ払いにすることで合意を得た。無論、そんなことはどこの酒屋でもやっていない。店長らが理解を示したというよりは、Q氏の偏執狂ぶりに恐れをなしての承諾だったとみえる。「考えてみればうちのような量販店に分不相応なル・パンなんか置いたのが間違いだった」と、その後店長がこぼしたのを誰かが聞いたらしい。
 勿論、ビール券はこっそりその日のうちにQ氏の細君が渡しに行ったのだが。
 Q氏はその後も信条を変えていない。恐らく死ぬまで変えないだろう。我々はQ氏が飽くまで一小市民であったことに感謝せねばならない。
Q氏が偉大な政治家であった事を考えただけでも恐ろしい。
 そういうわけで、今Q氏の文化住宅の居間にはシャトー・ル・パン1999年が鎮座している。永遠に飲まれる事はないかも知れない。

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