ラスティ・ネイル 「ルオータ・デッラ・フォルトゥナ」 と、マスターは言った。【運命の輪】というイタリア語だ。マスターの左手が古びたタロットカードの一枚を表向きにした瞬間だった。 店のドアが開いて、びしょ濡れの女が入って来た。 「おやおや。すごい雨なんですね、大丈夫ですか?」 マスターは素早くカウンターの外へ出て、女にハンドタオルを手渡した。 「どうもありがとう。急に降り出したものだから」 真夜中の急雨は、偶然にもこんな美女を地下墳墓みたいなバーへ届けてくれたものだ。女は肩までのストレートな黒髪を丁寧に拭き取りながら、私の方を見て決まり悪そうに微笑した。あどけないように見えるが、恐らく二十代も終わりの年頃なのではないかと思える。 「とりあえずそうね。ウイスキーベースのカクテルを…ラスティ・ネイルを頂戴」 オーダーの仕方が慣れている。しかも女性にはかなりハードなアルコール度数のカクテルを指名したところを見ると、かなりのウワバミらしい。 女はカウンターの私の隣に座った。他に客がいないでもないが、この店はカウンターしかない。当然の選択だった。この店のマスターは詮索好きではない。妙齢の女が如何なる理由で強い酒を飲もうが、お構いなしといった風情で、ロックグラスに氷を入れ、些かドランブイを効かせ気味にビルトし始めた。 本来、ラスティ・ネイルはスコッチ・ウイスキーを3/4、ドランブイを1/4程度なのだが、マスターは少人数が相手ということもあって、客を観察してから適宜レシピを微調整する。どうやら女性客だということで、甘めを意識したようだ。 「随分酒にお強いようですね」 と、私は控えめに声を掛けた。女は自然に首を傾げ、答えた。 「そうでもありませんわ。香りが好きなんです、このカクテルは」 女は出来上がったラスティ・ネイルと私のギムレットを見比べながら、また微笑を浮かべた。 「今夜は一雨来ると天気予報で言ってましたがね」 「何でまたこんな土砂降りの夜に女一人で出掛けたのか?っていう顔してるわ」 女は私の方を凝視した。余計な詮索をしてしまったらしい。 「人を殺してきたのよ」 事も無げに女は言った。 マスターは、女が長い長い溜息を吐いた瞬間だけグラスを拭く手を止めた。だが、直ぐにいつもの無口なマスターの表情に戻っていた。 女は、ラスティ・ネイルの琥珀色した液体を見詰めた。不思議なものだ。グラスという容れ物がなければ、酒は床に流れ落ちた単なるアルコール混合物の汚水になってしまう。そして、今は女がぼんやりと見詰める目標になっていた。 「……驚かないのね、貴方は」 「貴女の様な女性が言う冗談にしてはけれん味がなさ過ぎて、笑えないですよ。本当の事だったとしたらなおさらだ」 女は冷めた横顔で俯いた。 「本当のことよ」 マスターは動じもせずに、やはりグラスを拭いていた。私は、職業上なんと答えてよいものか幾つか答えを用意しているが、今日に限って何れも品切れだった。 「好きな男(ひと)がいたんです。今更少女っぽいけど、すごく憧れて好きでたまらなかった。その人が向こうから私に歩み寄ってきてくれた時、最高に嬉しかったわ」 女は過去形で話し始めた。 「仕事のことで認められようとして、一生懸命になっていたの。それが叶うと、今度は女として認められようと努力したわ」 どうやら、仕事の上司との恋愛話のようだ、と私は判断した。女の顔は緩く綻んでいた。 「それでお付き合いするようになって一年余り経ったわ。彼は普段はとても誠実だと思っていたわ」 「誠実な男ほどつまらない男はいませんよ。また、そんな男は此の世に一人もいません」 私は気の効いた台詞を言ったつもりだったが、女は浮かない顔になっていた。相変わらずマスターは此方の遣り取りなどどうでも良さそうだ。 「そうね。貴方の仰る通り。彼には奥さんがいたわ」 女はいやに淡々とした声調で応えた。 「だから子供を堕ろせと言われたのよ」 そう言ったときの語尾だけが微妙に震えた。堕胎をしてきたばかりの女。それで『人を殺した』と言ったのだ。 心身ともに激しく傷付いているのだ。それこそ簡単に言う男には判らない痛みを抱いて。 こういう場合の対応も、今夜の私は不用意だった。 「生みたいかどうかなんて、私も正直判らないわ。でも、堕ろせと即座に言うなんてあんまりじゃないの」 女の頬をつっ、と涙が伝った。悲しみの涙と裏腹に、夜の灯りに照らされて眩く美しい透明な輝きが、カウンターテーブルに砕け散った。 「兎に角、体力も消耗しているし今日は、いや最低一週間はアルコールは入れないように。帰ってゆっくり休まれた方がいいでしょう。ヤケ酒の相手なら私がいつでもしてあげますよ」 と、私は言った。 女は、掌で涙を拭いながら、私の方を振り向いた。 「本当?本当なのね?やさしいのね、貴方」 そうでもないですよ、と言い掛けて私はマスターを見た。マスターが何か私に目配せしている。だが、私は女の肩を抱き、自分のコートを引っ提げてスツールから降ろすとドアに向かった。 「タクシーでお送りしましょう。どちらまでですか?」 「高円寺の方です」 女は小さく答えた。私は先にドアを出て、タクシーを拾おうと通りに飛び出した。土砂降りの雨の中、タクシーは何度か通ったが、何れも「賃走」のランプを掲げていた。 「大丈夫ですか?」 女に声を掛けられ、私はバーの軒先に戻った。コートがずぶ濡れになってしまった。ふと、携帯電話のバイブレーション機能が働いているのに気付く。 女に背を向け、少し離れた隣店の軒下に入ると、受信ボタンを押すと聞きなれた低い声がした。 「どちらに?まだタクシーに乗っておられませんか?」 マスターの声は落ち着いていた。 「どうかしましたか?」 「いえ、あのお客様とご一緒に帰られるのはどうかと。彼女はきまってこういう土砂降りの日に現れます。そして、カウンターに座って『人を殺した』と言うんですよ」 私は女に聞こえないように、声を顰めた。 「なんですって?」 「毎回話のパターンは同じです。慰める優しい男性に送って貰って……その後はどうか判りませんがね。堕胎したのが本当かどうかも判りませんが、私としてはあまり関心しません。ご忠告まです」 マスターからの電話は、そこで無愛想に切れた。 私だからこそ忠告の電話を掛けてくれたのかも知れない。私は、所在無く軒先に佇む女の姿を遠巻きに見遣りながら、思い悩んだ。 使うべきか使わざるべきか悩ましい、「錆びた釘」のような女。脆く崩れ去ってしまうのかもしれない。 女を送って帰るだけにするか、それとも自分だけタクシーを拾って帰るか。 私の職業は産婦人科なのだが。 |